【都督の弱点】


  

花ちゃんのことで図らずも振り回されてる都督が好き!




「え?お出かけなんですか?」
「ええ。ここから南へ行ったところにある城へ。先ほどの戦で功績のあった武将に、まあ、ご機嫌伺いのようなものでしょうか」
公瑾はそう言うとニッコリと微笑んだ。
もうすぐ挙げる二人の結婚式で公瑾に聞きたいことが有り、花は朝食が終わってすぐに彼の執務室に行った。
ところが公瑾は旅装だったため不思議に思て尋ねた、その返答だ。

「公瑾さんが行かれるんですか?」
「私がわざわざ行くというところに意味があるのですよ。孫呉から重要視されてると認識していただけますのでね」
「そうですか……」
しょんぼりと花がうつむく。
「さみしいですか?」
「え?」
公瑾の言葉に花が顔をあげると、公瑾はいつもの微笑みを浮かべたまま近づいてきた。そして花の肩に腕を回す。
「こ、公瑾さん?」
驚く花の耳元で、公瑾は甘く囁いた。
「私はさみしいですよ。夫婦であれば、こういった危険の少ない旅なら同伴することもできたでしょうが」
「は、はい」
あまりこういったスキンシップに慣れていない花は、真っ赤になって固まっている。公瑾はそんな花をからかうように続けた。
「途中で別の城にもよる予定なので、一週間ほどかかります。さみしいでしょうがいい子で待っていてください」
公瑾はそう言うと、長い指で花の顎を上向け、唇を合わせた。
「ん……」
公瑾のマントを掴む花の手が震える。公瑾はその手を上から優しく握り指を絡めた。
この初々しい反応が、彼女よりも何歳も年上で経験豊富なはずの公瑾を夢中にさせる。
公瑾が口づけを深めようとしたとき、バタン!と大きな音がして執務室の扉が空いた。

「公瑾殿。準備が出来たと兵士たちが……おやこれは、邪魔をしてしまいましたか?ふぉっふぉっふぉっ」
「こーきんすけべー!!」
「へんたーい!」
子敬と大喬小喬だ。公瑾は意外にも動揺せず、唇を離した。そして余裕の様子で扉の方を見る。
「ああ、時間ですか。恋人と別れを惜しんでいたら時があっという間に過ぎてしまったようです。では、花殿。行ってまいります」
「……いって、らっしゃい……」
見られた見られた見られた……!と真っ赤になっている花が呆然と別れの挨拶をすると、公瑾は微笑んで扉の方へと向かった。
「こーきんずうずうしー!」
「なんかむかつくー!」
「ふおっふおっ婚約した余裕でしょうかねえ」
子敬はそう言うと、公瑾とともに部屋を去った。

「花ちゃん?」
「大丈夫?」
部屋に残された大喬と小喬は、ぼんやりしている花の前で手を振った。花はハッと我に返る。
「う、うん。大丈夫」
慌ててそう答えると、今度は尚香が扉から入ってきた。
「公瑾を呼びに来たんですが、もう行ったようですね。……あら?花さん、顔が赤いですよ?」
花たちに近づいてきた尚香に、花は話をそらすように聞いた。
「え、えっと!えーと、公瑾さんが行くところってどのあたりなんですか?南の方って言ってましたけど」
「ああ、今回の行き先ですね。ここから馬車で一日くらい行ったところにある、同族の城です。遠い親戚ですので、私もよく行きます。山の上に綺麗な泉があって、そこに別邸があるんですよ。涼しくて食べ物も美味しくて……あ、そうだ!花さん、私たちで行きませんか?」
いいことを思いついたというように、両手をパンと打ち合わせて、キラキラした目で尚香が言った。
「いいね!あそこ楽しいよね!」
「花ちゃんも気にいると思うよ〜」
大喬と小喬もいい思いつきだとばかり大喜びだ。花は目をパチパチとまたたいた。
「行くって今から?勝手に行っていいんですか?それに私、城をでるのは……」
「もちろん私も行きます。大喬と小喬も行きますよね?そうと決まったら早速荷造りをさせて出発の用意を……」
「ま、待って待って!」
花は、きゃいきゃいとはしゃぎながら今にも家を出ていこうとしている尚香たちを慌てて止めた。先ほど公瑾から言われた言葉が頭をよぎる。
「勝手にそんなところに行っちゃっていいのかな?尚香さんたちはもちろんいいだろうけど、私は、その……公瑾さんにおとなしくしてろって言われたし……」
花がそう言うと、尚香は「まあ!」と憤慨したように言った。
「だめですよ。結婚する前から公瑾の言いなりになってちゃ。それに、公瑾は気づきませんよ。公瑾より早く行って遊んで、公瑾よりも早く帰ってきたら問題ないですよね?」
「でも、そんなことできるの?」
「できます。公瑾は途中の別の城に一泊する予定ですから。それに公瑾は親戚の城に滞在するでしょうが、私たちは山の上の別邸に止まります。公瑾が帰る前にそこをたてば何の問題もありません」
尚香が胸を張ってそう言うと、大喬と小喬も口々に言った。
「そーだよ、公瑾に気を使って好きなことできないなんておかしいよ。あそこ、とっても楽しいんだよ。泉での水遊びも気持ちいいし。行こうよ」
「そうそう!山の向こう側で熊猫が見れるよ」
小喬の言葉に、花は首をかしげた。
「熊猫?」
「知らない?熊みたいなんだけど、黒と白の毛並みで、目の周りが黒くて……」
小喬の説明に、花は「もしかして」とひらめいた。
「もしかしてパンダかな?本物のパンダ?」
「花ちゃんの国ではぱんだって言うの?もちろん本物の熊猫だよ。今の時期は赤ちゃんもいるかも」
パンダが見れる……しかも赤ちゃんパンダもいるかも……
公瑾に言われたことは気になるものの、花の気持ちはほぼ決まった。

尚香さんの言うとおりなら、公瑾さんには私が出かけたことがわからないだろうし……パンダ、みたいし……いいよね?

公瑾の渋い顔が一瞬脳裏に浮かんだが、花はそれを見なかったことにして大喬立ちに頷いた。

「行きたい!」




馬での行軍は暑かった。
馬車もあるが、馬車の中はさらに暑い。まだ馬の方が外の風が感じられて涼しい。
公瑾は、ちょうど真上で輝いている太陽を見上げた。
途中の城での挨拶と宿泊も無事にすんで、今は目的地へと順調に向かっていた。前方に城壁が見えているのであと少しだろう。
この城は、周囲の山と渓谷の景色が素晴らしい。今の季節は暑いけれど、涼しくなる木々も紅葉して美しい。
農作物も南から珍しいものが頻繁に入ってくるし、治安もいい。

落ち着いたら二人でここに来てみるのもいい

公瑾は花を思い出しながら周囲を見渡した。異国の地から来ている彼女には、すべてが珍しいだろう。
この景色を見てはしゃいでいる花を想像して、公瑾の唇は自然と緩んだ。素直に感情を表現する彼女は、公瑾にとっては驚きであり新鮮であり、魅力的だ。
自らが感情をあまり表に見せず内に溜め込む性質なので、余計にそう思うのかもしれない。思うがままに振舞う彼女のそばにいると、公瑾の心も軽くなるようで、張り詰めていたものが和らぐのだ。
「都督?都督?」
話しかけられていたことに気づき、公瑾はハッとした。
「はい。なんでしょう」
兵士は不審げな顔をする。
「あの、城からの出迎えの一行が……」
公瑾が前を見ると、兵士の言うとおり城主自ら家来を従えて公瑾の目の前に出迎えに来ていた。
ゴホンと咳払いを一つして。
「ご丁寧なお出迎え、ありがとうございます」
公瑾はにこやかに挨拶をした。

歓迎の宴は華やかだった。
公瑾はそつなく皆からの杯を受け、歓談する。
「公瑾殿、こちらも旨いですぞ。ぜひどうぞ」
武将の一人が勧めてくる皿を、公瑾は「いえ、もうたくさんいただきましたので」と断った。
「あちらの果物が入った皿をいただけますか?」
公瑾が頼むと、公瑾の脇に控えて何くれと世話を焼いてくれていた女性が幾種類かの果物を見繕って盛り合わせてくれた。
「ありがとうございます。……おやこれは……」
「お気に召しましたか?」
茶色の果物の皮をむいてみると中は白くみずみずしく輝く果肉だった。武将がさらにその果物を取り寄せる。
「どうぞどうぞ。まだ時期的に早いので京では出回っていないでしょう。うちはこれが自生した山が近くにありますので早くに出回るんですよ」
公瑾は果物を食べる。
「ええ、前に食べたことがあります。……これは持って帰ることはできますか?」
「え?公瑾様がですか?もちろんできますが……」
呉の大都督がそんな行商人のような真似をなぜ……という顔をした武将Aに、隣に座っていた武将Bが笑いながら突っ込む。
「公瑾殿は最近ご婚約されたとか。かわいい婚約者殿に持ち帰られたいのでしょう。傷まないように朝一番でとったものをお部屋まで届けさせましょう」
したり顔の武将Bにそう言われ、公瑾は耳が熱くなるのを感じた。が、表面上は平静を装って「ありがとうございます」と礼を言う。
武将Bの推測が大当たりだったことなどわざわざ言う必要もないだろう。からかわれまくるのは京での宴席で、もうさんざん経験済みだ。
それより公瑾が考えていたのは、これを食べた花がどんな笑顔を見せてくれるかということだった。
「すっかり酔ってしまいました。少し外で涼んでまいります」
そう言って公瑾は席を立ち、酔客たちに挨拶をしながら外へ出た。
「ふう……」
昼間は暑いがさすがに夜のこの時間になると涼しい。ここは京よりは南だが高い位置にあるため夏は京より過ごしやすい。

……彼女はどうしているだろうか

ふと思い出すのは花のこと。
もうすっかり城に慣れているから大丈夫なのはわかっているが、つい考えてしまう。普通の女性とは違い突拍子もないことばかりするので、自分がいない時になにか問題を起こしていないか心配なのだ。
結婚が決まり婚約してからは落ち着いてきたようで、大丈夫だとは思うのだが。いやそもそもあの城の中にいればなんの危険もないのはわかりきっているのに、彼女のことになると妙に心配性になってしまう。
公瑾は、ふっと自嘲するように笑った。



当初はここで二泊する予定だったが、星をみたところ明後日あたりに大きく天気が崩れそうだとわかり、公瑾たちは一泊で帰ることとなった。
心温まる見送りを受けての帰途。
今夜は家に帰って眠れると、兵士たちも明るく足取りも軽い。
馬に乗った公瑾の横に、同じく部下の一人が並んだ。
「公瑾どの。城主から土産は荷車に積んであります。それとは別に、生ものと、公瑾殿が頼まれた果物は、荷物同士がぶつかって傷まないよう馬車に」
「ありがとう」
「天気もいいですし、夕方には京に戻れますね」
「そうですね。ここまでかなり早足できましたし、昼はどこか涼しい所でゆっくりと休みましょうか」
ほとんどが騎馬だが、歩きの人夫もいる。特に急ぐ旅でもないしこの暑さでは昼の一番暑い時間は休ませた方が効率がいいだろうと、公瑾は考えた。部下が頭をひねる。
「どこか涼しい場所……ですか。この脇道を登っていくと、確か……」
「ああ、確かに。孫家の別邸がありましたね。山の上の方に。ここからならそれほど時間もかかりませんし、そこで休んでいきましょう」
公瑾がそう言うと、指令はすぐに部隊全体に行き渡り、騎馬10騎、人夫20人ほどが向きを変え、脇道に入っていく。
「懐かしいですね。ここは何度か来たことがあります。穏やかな泉があって、浅いので水遊びにぴったりで、よく皆で遊んだものです。たしか、あのあたりを超えたところに……」
公瑾と部下がそう話していると、先に様子見に行かせていた兵士が困り顔で戻ってきた。
「どうしたのですか?」
公瑾がそう聞くと、兵士は「いやそれが……」と頭をかいている。
「私が進んでいくと、止まるように言われまして」
「止まるように言われた?こんなところに人がいたのですか?」
兵士は微妙な顔をして頷く。
「はい。男たちが5人ほど。皆立派な身なりで、この先は立ち入り禁止だと」
公瑾は眉をしかめる。
「立ち入り禁止?この先にあるのは孫家の別邸だと知ってそのようなことを?」
「そうです。こちらも孫家ゆかりのものだと言ったのですが、男たちは聞く耳を持たず追い返されました」
公瑾の隣にいた部下が真剣な表情で言う。
「山賊のたぐいが別邸に住み着いているということでしょうか」
公瑾の瞳もキラリと光る。
「……だとしたらこのまま捨て置くことはできませんね……」
様子を見てきた兵士が慌てたようにいい添えた。
「いえ、はっきりとはわからないものの、そういうことではないようでした。その……自分がいた場所は泉から近かったのですが、その……女性たちの賑やかな声が聞こえまして……水遊びをされているのではないかと」
「……」
公瑾と部下は顔を見合わせる。
「……しかしあの泉も孫家の私有地です。勝手に水浴びをしてその上我らの行く道を遮るのは……」
様子を見てきた兵士が、言いにくそうにつっかえつっかえ言った。
「これは私の想像なのですが、男たちの口使いや身なりからして、多分泉で水遊びをしているのは孫家ゆかりの女性たちではないかと……その、水遊びなのでもちろんその、人目をはばかるような格好で、男たちは人が来ないように見張りをしているのではないかと推察したのですが」
兵士の話を聞きながらも、公瑾は花たちのことをこれっぽっちも疑ってはいなかった。
花は京の都で自分の帰りを待っていてくれるはずなのだから。
きっと先ほど辞した城の女性たちが泉で水遊びをしているのだろう。一応孫家の遠い親類なので、別邸を利用することも可能だ。
公瑾達が出て行って女性たちを追っ払うのは立場上まずい。
水浴びをしている女性たちの姿を覗いたともなると、これまた別の問題も発生してくる可能性もある。
公瑾はため息をつくと、馬を返した。
「ご婦人方が水浴びをされているというのなら、しょうがないですね。ここからすぐのところに少し開けた場所がありましたから、我々はそこで休憩としましょう。泉から流れてきている小川もありますから、食事の準備も問題ないでしょう」
泉のそばの方が開けているが、まあ別に手前の小川でも問題ない。
公瑾たちは方向転換をし、手前の開けた場所で休憩することとなった。

男同士で酒もなければそれほど話も弾まない。
食事中静かになると、先ほど兵士が言っていた女性たちの華やかな声が聞こえてきた。
味気ない旅の飯を食べながら、兵士の一人がぼそっと言った。
「水のかけあいっことかしてるのかな……」
となりの兵士も言う。
「どっちが長く潜っていられるかとかな」
「いや、船でもだしてるかもしれないぞ」
「何人ぐらいいるのかな」
「……」
兵士たちがにやけた顔で妄想しているのを、公瑾は横目で見ながら聞いていた。
規律がしっかりしている精鋭たちだからこそ、今ここで水浴びしている女性の淫らな姿を想像してもおおごとにはならないが、これがそのへんの雑兵だったり、山賊やごろつきのたぐいだったらこうはいかないだろう。

まったく、城主どのものんきな……
自分たちの女性のみの危険も知らず私たちと宴を開いているとは。
そもそも私なら五人程度のおつきで女性を水浴びに行かせるなどけっして許可はしないというのに。
女性たちも女性たちです。暑いのはわかりますが、たしなみというものが……

公瑾がそこまで考えたとき、兵士たちの嬉しそうな声がした。
「おい!なにか流れてきたぞ!」
「水浴びしてる女子のものじゃないか?」
「うすものだ!下着かな?」
浮き足立ってる兵士を収めるため、公瑾は立ち上がった。
「水には入らないように!このまま食事を終えたらすぐに出立します。各自持ち場に戻って準備!」
厳しい公瑾の声に、兵士たちはピシッと整列した。そしててきぱきと荷詰めを始める。それを横目で見ながら、公瑾は人夫の一人に流れてきた薄物を取りに行くよう命じた。
放っておいて、隠れて取りに行った兵士が問題を起こしたりしたら面倒だ。とってきてもらった薄物は、先ほどの様子を見てきた兵士に言って見張りの男たちに渡せばいいだろう。そう思いながら人夫がとってきた白い繊細な布を手にとって、公瑾は固まった。

これは……

見覚えがある。
この織物は、確か貢物で西の交易路を通ってはるばる京の都まで届いたもので、美しく珍しいので仲謀が城の女性に配ったのだ。量もそれほど多くないので、配った女性は限られている。
尚香と、大喬と、小喬と、そして花。

「……」

公瑾は濡れた薄物をぎゅっと握り締めると、無言で立ち上がった。




「きゃー!冷たい!やめて尚香さん!」
花は笑いながら尚香に向かって水をかけ返した。尚香は笑いながら手で防ごうとしている。
「もう降参です。花さん」
はあはあと笑いすぎのせいで肩で息をしながら、尚香は泉の中で立ち上がった。
「私もお腹がすきました。小喬大喬と一緒に軽くなにかを食べてきますね。花さんもどうですか?」
「うーん、私はもうちょっと泳ぎたいかな……でも、こっちの世界には水着はないんだね」
泉の中をゆらゆらと移動しながら、花は尚香にそう言った。水遊びは透けないように濃い色の着物に着替えただけで、別に普通の格好なのだ。透けはしないけれど、体にぴったり張り付いて泳ぎにくい。
「水着?それはなんですか?」
「うーん、泳ぎやすいようにね、こうやって裾も短くてズボンみたいな……上も袖はないんだよ」
「まあ。それは……それはかなりはしたないですね」
「そうかな?慣れちゃってたからなんとも思わなかったけど……あ、こうやって裾をからげて結んで脚をだせば、水の中で動きやすいね。袖もこうやってまくって腕を出せば……」
着物を改造して動きやすくしている花を見ながら、尚香は水から上がった。
「泳ぎやすいとは思いますが、かなりあられもない格好ですので、ここ以外ではそれはしちゃダメですよ」
「はーい」
ここなら誰もいないから大丈夫、と花は動きやすく改造した着物ですいーっと泳ぎ始めた。小喬立ちが上がっている浅瀬とは反対側の、水際まで深くなっている方へと泳ぎ、岸にある大きな岩にタッチする。
「あ、すっごく泳ぎやすい!ね、尚香さん!」
花が喜んで立ち上がり、岸で既に着替えて軽食を食べてる小喬、大喬、尚香に手を振った。
しかし彼女たちは奇妙な顔をしたまま花を凝視して固まっている。

……あれ?やっぱりこの格好、この世界ではダメだったかな……泳ぎやすいんだけどな……

花がまずかったかと、自分の格好を見下ろしたとき、後ろから静かな声が聞こえた。

「たいへん魅力的な格好ですね」

……え?

花の動きも止まった。
心臓も時間も止まったように感じる。唯一動いているのは、額から頬に伝う冷や汗のみ。

こ、この声は……いやこれは夢。夢だから大丈夫。だって公瑾さんが帰るのは明日の予定で、私たちはこの水浴びが終わったらすぐに京へと帰る予定で……

いろんな思いが頭を渦巻くが、総じて花の頭は真っ白になっていた。
ずっとこのままでいたいけれどそうもいかない。
花は恐る恐る後ろをむいた。
そこにあったのは当然ながら公瑾の恐ろしい笑顔だった。
「こ、公瑾、さ、ん……」
「こんにちは、婚約者殿」
「……こんにちは……」
この穏やかの声と笑顔が恐ろしい。花は張り付いたような笑顔で公瑾を見上げた。後ろの方で尚香たちも無言になっている。
「……私の婚約者はおとなしく城で待っていると思っていたのですが、これは夢でしょうか?」
「……」
「私の婚約者がこのような場所で、そのようにあられもない格好で水遊びに興じているとは思えないのですが……。これはやはり夢ですね」
「ゆ、夢だと思うので、目をつぶってみてください……」
花が苦し紛れに言う。公瑾が目をつぶっているあいだに急いで水から上がって、せめて服を……できれば京まで帰って……
とても実現不可能な想像が花の頭を渦巻く。
花の答えを聞いた公瑾は、ひやりとするような冷たい声で笑った。
「はははは、面白い人ですね、あなたは」
笑いが乾いていて恐ろしい。花は堪忍した。これはもう正々堂々と謝るしかない。
「ご、ごめんなさい!暑かったし、美味しいものがたくさんあるって言うし、熊猫も見てみたくて……」
「……熊猫、ですか……。私のおとなしく待っていて欲しいというお願いは、熊猫に負けたというわけですね」
「そういうわけじゃないんですが……公瑾さんより早く京にいは帰るつもりで……」
「なるほど。証拠隠滅というわけですか」
「……すいません……」
もう謝るしかない。
見かねた尚香が、公瑾と花の近くにやってきた。
「……公瑾、あんまり花さんを責めないであげてください。最初は彼女も公瑾のいいつけを守ると言っていたんです。それを私たちが焚きつけて連れてきてしまったんです。これからすぐに帰りますから……」
「まず着替えていただけますか」
公瑾はぴしゃりと尚香に言った。そして花を横目で見る。「あなたもです」
「は、はい!!」
尚香と花は慌てて着替えをした木陰へと走ったのだった。


「……あの、まだ怒ってます?」
「……」
「……ごめんなさい」
「……」
「公瑾さん。もうしません」
「……馬に乗ったまま話すと舌を噛みますよ」
「……」

京への帰り道。
花は公瑾の馬に公瑾と一緒に乗っていた。花は恐ろしくて、尚香たちと一緒にきた馬車に乗って帰りたかったのだが、大喬が小さな声で耳打ちしたのだ。公瑾の馬に一緒に乗った方が公瑾の怒りが収まると。
いけいにえにされたような気がしないでもないが、尚香たちの馬車から追い出されてしまったのでしょうがない。
『あの、一緒に……乗せてもらいたいなーなんて……』
とおずおずと馬上の公瑾に花が言うと、意外にも花を抱き上げるようにして自分の鞍の前に乗せてくれた。終始無言だったのが恐ろしいが。
しゅんとした花がうつむいて静かにしていると、公瑾が溜息をついた。
「……まあ、私も悪かったかもしれません」
公瑾が不意にそう言ったので、花は振り向いた。仲直りができるのかと心がはねる。しかも自分が悪かったなんて……
「そんな……そんな、公瑾さんは全然悪くなんかな……」
「あなたが私のいない間、城でおとなしく待っているはずないというのはわかっていたのに、ついつい自分の常識で考えてしまっていました。あなたの非常識さに考え方を合わせるべきでした」
「……」
これは謝罪なのかイヤミなのか……。多分両方だろうと思い、花は黙っていた。
「……あなたの……あんな水浴び姿も私は見たことがありませんし、あなたが熊猫を見たがっていたということも知りませんでした」
「……すいません……」
何に謝っているのか花にもわからなかったが、とりあえず責められていることはわかったので、花は謝った。
公瑾は花の謝罪が聞こえていないように続ける。
「まだほかに、何かあるのですか?したいこととか、見たいこととか、食べたいものとか」
「いえ、もう……特にはないです」
花がそう言うと、しばらくの間のあと、公瑾は言った。
「……これはからはどれも、まず私に言ってください。あなたの希望に耳を傾ける時間くらいは、どんなに忙しくても私にはありますから」
「……」
花はポカンと口をあけて公瑾を見た。公瑾に「舌を噛みますよ」とまた言われて、慌てて口を閉じる。
頬が熱くなるのを感じて花はうつむいた。
公瑾に言われたとおり、これからは全部最初に公瑾に話そう、と花は思った。

私も一番に、公瑾さんに聞いて欲しい

嬉しくて微笑んでしまいそうになったとき、花はふいに思いついた。
「あ、そうだ。ありました。ほかにしたいこと」
花の明るい声に、公瑾も優しい微笑みで花を見た。
「なんですか?」
声も優しい。花は公瑾を見上げながら言った。

「公瑾さんと仲直りがしたいです」

公瑾は面食らったように目を見開く。そして困ったように愛おしそうに花を見て笑った。そして花の耳元に口を寄せてささやく。
「もう仲直りはできていますよ」
そのあとに、花の頬に公瑾が軽く唇を落とす。
「こ、公瑾さん……!こんなところで……」
慌ててあたりを見渡す花に、公瑾は笑った。
「悩ましい水浴びの姿を見せられましたのでね。せめてこれぐらいはさせていただかないと」
「……公瑾さん……」

馬の上でいちゃいちゃしている二人を、後ろの馬車から偵察してた小喬がばっちり目撃していた。
「仲直りしたみたいだよー」
馬車の中でおやつを食べていた大喬と尚香は、それを聞いて笑う。
「大喬の言うとおりでしたね」
「一緒の馬に乗せるのはいい手だったでしょ?」
小喬も偵察から戻り、お菓子をつまむ。
「今なら花ちゃんを連れていけば、なにをしても公瑾に怒られないよ」
「次はどこ行く?」

次の相談をしている小喬と大喬をみて、尚香は公瑾に同情しつつも笑い声をあげたのだった。









おしまい