【都督の初夜】


  


「花ちゃん!これおいしいよー飲んで!」
「これ、食べる?」
大喬小喬からサラウンドで勧められた酒と食べ物を、花は手を振って断った。
「私、お酒飲めないんです」
「でも、せっかくお祝いの日なのに〜!」
「じゃあこれは?甘くておいしいよ?」
小喬が差し出した杯を持ち上げ、花はにおいをかいでみた。かすかだがアルコールの臭いがする。
花は首を横に振った。
えーっと声を上げる大喬と小喬に、尚香が後ろから声かけた。
「あんまり花さんを困らせちゃだめですよ。公瑾に怒られてしまいます」
そうして花の横に座った尚香は、花の顔を見てにっこりとほほ笑んだ。
「公瑾との婚姻、おめでとうございます。ようやくですね。花さんのためにお酒の入っていない飲み物をもってきました。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
花は尚香から手渡された杯に口を付けた。果物のいい匂いがする。
「奥さんになった気分はどうですか?」
尚香にからかうように聞かれて、花は口ごもり、赤くなりながら一口飲んだ。
「あ、おいしい……」
「ですよね。私も好きなんです。だから今日は花さんのために特別作ってもらったんですよ。たくさん飲んでくださいね!」
ちょうど喉が渇いていた花は、ごくごくと飲み干し、お代りをもらった。

今夜は公瑾と花の結婚を祝う宴。
宴会ははたいそう盛り上がり、広い宴会場はすごい熱気なのだ。
呉の大都督の結婚式なのだから、盛大なのは当然だろう。最初はそれなりにあった節度も酒が入り祝いの席だということで時が過ぎた今となってはかなり場が崩れていた。
公瑾は花婿用の鮮やかな衣を着て、広場の反対側で武将やら文官やら各地の領主やらに囲まれて飲んでいる。花も今日は髪を高く結い上げて白い生花で髪を飾っていた。衣も薄く繊細な色合いのものを幾重にも重ねた華やかで美しい花嫁衣装だ。
尚香はもう一度楽しそうに花に訪ねた。
「で、奥様のご機嫌はどうなんでしょうか?」
「え?わ、私ですか?」
大喬も入ってくる。
「そうだよー。公瑾なんかと結婚しちゃって大丈夫ー?」
「顔と金と権力はあるけどおすすめじゃないと思うけどなー」
それだけあってもおすすめじゃないというのが一抹の不安ではある。花はもう一杯尚香にもらったジュースを飲んだ。
確かに怒りんぼだし意地悪でえらそうだけど。
「えーっと、その……し、幸せ、です……」
どこがどうとかはっきりとは言えないけれど、公瑾のそばにいると安心する。これからはずっと一緒にいられると思うと、花は地に足がついたような、居場所ができたような幸せな気分だった。
「堂々とのろけられてしましましたね」
尚香も嬉しそうに笑った。大喬も小喬も口ではあんなことを言っていたが、嬉しそうだ。
「もーこうなったら飲ませちゃう!」「お酒じゃないけど、飲んじゃえ飲んじゃえ!」
皆に冷かされて、花は小喬にジュースを注いでもらった。アルコールは入っていないからお腹がタポタポになるかもしれないが、祝おうと思ってくれるその気持ちが嬉しくて、花は何度も杯をあける。そして………



「……これはどういうことですか」

公瑾の静かな声に、尚香、大喬、小喬は首をすくめた。
にぎやかな宴の中で、この一角だけ空気が重く冷たい。周りは気づかずに騒いでいるせいで、灰色の空気とのコントラストが鮮やかすぎる。
尚香が小さな声で言った。
「いつもは……お酒は入っていない飲み物なんです。厨房には花さん用にそれを頼んだのですが……どうも厨房側がお祝いの席だからと気を利かせて、少しだけお酒を……いれた、よう、です……」
公瑾ににらまれて最後の方の言葉はしりすぼみになった。
尚香、大喬、小喬、そして公瑾の視線の先は、長椅子にぐったりと寄りかかりすっかり意識をなくしている花。
「たとえそうでも普通なら途中で気づくものでしょう」
「私たちは別のお酒を飲んでいて、全然……」
「ごめんね、公瑾?」
「ごめんなさい」
あの大喬も小喬も珍しく小さくなっている。公瑾はため息をつくと、体をかがめて花を抱き上げた。
「主賓ではありますが、妻がこの状態ですので一足先に下がらせてもらいます。皆酔っ払って気づかないでしょう」
「え、ええ!問題ないと思いますよ。兄上には私から言っておきます」
「お願いします」
公瑾はそういうと、花を抱きかかえたまま踵を返した。二人の華やかな衣装が体の動きにつれて舞い、美しい。花は完全に意識を失っているようで公瑾に抱き上げられても真っ赤な顔でぐったりとしたままだった。
「では、おやすみなさい」
クールな声でそう言って出ていく二人を、尚香たちは見つめていた。
「なんか……本当に結婚しちゃったんだね」
「ねー」
大喬と小喬がつぶやく。小喬はほほ笑んだ。あの退場の仕方は、あからさまに花はもう自分のものだという公瑾の立場を感じた。
「少し、さみしいですね」
「うん……」
「もう花ちゃんは公瑾のものなんだね……」
花が呉に来たのは最近なのに、すっかりなじんで女同士で仲間のように思っていた。
「大丈夫ですよ、旦那様はあの公瑾なんですから。これまでと変わらず私たちとも遊んでくれますよ」
尚香は慰めるためにそういったものの、あの公瑾がどんな夫になるか想像もつかない。
三人は微妙な表情で顔を見合わせたのだった。


公瑾の屋敷まで帰る途中の馬車で、花はすやすやと眠り込んでいた。
公瑾の家までは馬車ですぐだが、がたがたと馬車が動くたびに花は公瑾にもたれかかる。
「……ほら、しっかりしてください。もうすぐ私の屋敷につきますよ」
花は、当然ながらムニャムビャ…と意味の分からない言葉を返すだけだ。馬車が大きく揺れ、ぐらりと倒れそうになった花を公瑾は抱きかかえた。
華奢な体を腕に感じ、鼻孔にはふっと甘い香りがかすめる。
「……花、殿」
思いがけず喉の奥で何かが絡まり、公瑾の言葉は詰まった。
いつも公瑾の言うことを聞かない花、いつもいつも公瑾の思惑の外を飛び回り公瑾をはらはらさせる花が、今はこうして腕のなかにいて体を預けている……
公瑾は、腕に我知らず力が入った。花の体を、今度はそっと抱きしめる。
「ん……こ、うきんさん……」
花のつぶやきが聞こえ、公瑾はハッとなって体を離した。そして離した直後に考え直す
もう夫婦なのだから別に抱きしめてもやましいことなどないはずだ。
どうも恋人同士で花に触れてあれやこれやすることを我慢する期間が長かったせいで後ろめたさが伴う。

……いや、まだ正式に『夫婦』とは言えないのかもしれない

そうだ、その通りだ。
夫婦と言えば当然ながら床を共にするもので、床を共にするというのはつまり……つまり、夫婦の営みをすることを意味する。が、今現在、二人は式は挙げたものの床を共にしたことはないのだ。

しかし彼女のこの酔い具合。
この状態ではとてもじゃないが今夜は夫婦の営みはできないような気がする。しかしせめて口づけぐらいは……

不謹慎なことをちらりと考えた時に、花の声が公瑾の思考を破った。
「公瑾さん!」
「は、はい、なんでしょう!」
思わず背筋をピンと伸ばして答えてしまったが、花の顔を覗き込むと花のまぶたはまだ閉じたままだった。なんだ……と公瑾がほっとしていると、花のねごとのような言葉が続く。
「公瑾さんは……いっつも何も言わないから……何も言わないで、一人で無理をしちゃうから……」
公瑾は目を見開いた。
「これからは、私に話してくれると、いい、な……」
公瑾は寝言だということを忘れて思わず真面目に聞き返す。
「話す……というのは、私の執務のことをですか?」
花はため息のような吐息をつく。
「わた、し……頑張ります。……公瑾さんの助けに、少しでもなるように……夫婦なんだから、二人で、辛いことも半分こできたら、いいな……」

花が結婚に対してこんな風に思っているとは知らなかった。
自分に対しても。
正直、自分の一体どこを好きになったのだろうと真面目に思うが、こんな風に思っていてくれたとは。
公瑾は感動していた。
がたがたと動く暗い馬車の中で、公瑾はじっとその感動をかみしめる。
人から、特に女性からこんなに……こんな風に思われたことは初めてだ。
「花殿、聞きたいことがあります」
言いかけて公瑾は迷った。こんなセリフを言うのはプライドが許さない。が、今、花は意識がないのだ。きっと覚えてもいないだろう。なら、聞けるのではないか?
以前、まだ婚約する前、お互いに好きあっていることすら知らないときに、花は公瑾のことを『好きだ』と言ってくれた。
だがその後。
かなり長い婚約期間中は、恥ずかしがってほとんど言ってもらっていない。公瑾からは本意ではないものの何度か『好きだ』と気持ちを吐露したことがあるのに、花は『私もです』とかそんな感じの返答だけで、はっきりと言ってもらうことは少ない……いや、最初の時以来ない気がする。
結婚した最初の日なのだし、これからの結婚生活の始まりとしてここはぜひ花の気持ちを確かめておきたいではないか。

「……あなたは、その……私を好きなのでしょうか?」

ガラにも会わず胸をドキドキさせtながら公瑾は聞いたのだが。

「いいえ」

花の即答に公瑾は固まった。
花の声はきっぱりとしていた。先ほどまでは酔っているのと眠りかけているのとで途切れかけのむにゃむにゃ声だったのに。
公瑾の顔からは血の気が引き、暗黒物質の敷き詰められた奈落の底へと落ちていく。
と、次に続く花の言葉で、その急降下は止まった。

「好きじゃなくて大好きです」

「……は?」
「大好きで、とっても大事で、大切…で…」
「……」
「それまでずーっと……ふわふわ、し、て……」
途中で声が小さくなってしまった花の口元に、公瑾は耳を寄せた。「ふわふわして……なんですか?」
「……ふわふわって浮いてる感じで……、でも公、瑾さんが……公瑾さんのそばにいたいって思ったら……ようやく居場所ができたみたいに、地面に足が……つい、て……」

ガタンッと馬車が止まり屋敷から召使が扉を開けた。
「おかえりなさいませ」
公瑾は心の中で舌打ちをした。
もっと聞きたかった。花の、これまで聞いたことのない気持ち。意識のない状態で聞いてしまっていいのだろうかという良心の声は公瑾には全く聞こえない。
公瑾は花を起こさないようにそっと抱き上げると馬車から降りた。無意識のままで花が細い腕を自分の首に回してくれたのが思いのほか公瑾の心を震わせる。
眠り込んだり、逆に覚醒したりしないように気を付けて部屋に落ち着けば、続きを聞けるのではないか。
公瑾は走り出したい思いを抑えて屋敷の扉まで歩いた。
新婚初夜で花嫁を抱き上げた状態で寝所まで走り出したら、明日あらぬうわさがこの京城の町中に広がることは手に取るようにわかる。
「ああ、いや、花殿……妻は眠り込んでしまったので、食事はいい。……軽い飲み物も結構。風呂は朝に入る。とりあえず寝所の用意はできているか?……よし、ではそちらへ向かう、……いや、私が抱いていく」
部屋につくと、何かあればこちらから呼ぶから下がっているようにと召使にいい、公瑾は二人の寝所へと入った。
薄暗い部屋。寝台の横の小さな飾り机の上に燭台がおいてあり、新妻のために用意した美しい部屋を照らしていた。
公瑾は花をそっとふかふかに布団が敷き詰められている寝台の上に下ろす。
「ん……」
花の大きな茶色の瞳が一瞬開いたが、覗き込んでいた公瑾を認識することはなく再び閉じられた。
布団の上に落ち着いたのを見計らって、公瑾は再び花に訪ねた。

「私のどんなところが好きなのですか?」

これも聞きたくて聞けなかった問いだ。
こんなことを花に聞いたことが城のみなにばれれば、仲謀が指をさして大笑いをし、大喬小喬がしつこくからかい、尚香がくすくすと笑い、子敬がいつものあの顔のまま『公瑾殿もおかわいらしい』とふおっふおっと笑うに決まっている。
花はピクンと動くと、ため息とともにつぶやいた。
「……誠実なところ……」
公瑾は薄暗い部屋の中で、目を見開いた。大きな掌で自分の顎のあたりを覆いながら体を起こして花を見る。

誠実とは……

正直自分とは対極にある言葉だと思っていたが。
「せいじつで、まじめ……で……優しいのに……不器用で……あと、は、何か考えているときの横顔とか……」
「え?横顔?ですか?」
「それと、背が高くてすらっとしてて……きれいだなーって……あと、困ったみたいに笑う顔とか、手の甲から手首の線とかも素敵で、歌を歌うときの声もきれいで、顔も……あと楽器をいろいろ弾けるのもかっこいいなあって思うし……それに」

花の口から次から次へとあふれ出る『公瑾さんの好きなところ』に、さすがの公瑾も長い指で額を押さえて赤面した。

嬉しいが、恥ずかしいというか……いや誰も聞いていないからいいのだが……

「それに……うぷっ!!!」
唐突に差し込まれた擬音に、ふわふわと幸せに酔っていた公瑾は現実に引き戻された。
「はっ花殿!!誰か!誰かタライを持って来い!」
バタバタと廊下から数人の足音がする。
「公瑾様!!」
バン!と新婚初夜の寝所の扉をあけて、召使たちが流れ込んできた。タライはすんでで間に合った。



なんとか花も落ち着き、再び部屋の明りが落とされる。片付けも済み部屋を去ろうとした召使が公瑾に聞いた。
「あの、奥方様はお具合が悪そうですし、公瑾様は別の部屋でお休みになられますか?」
公瑾は寝台の上でぐったりと横たわっている花を見た。
確かにまた夜中に吐かれでもしたら公瑾もゆっくりとは休めないし、今夜は当然ながら本来の『初夜』たる行為はできないだろう。具合が悪いのなら別の寝台にしても特に問題はない。だが……
「……いや、ここで寝る。新しいタライはそこに置いて行くように」
召使たちが部屋から出ていくと、公瑾はそっと花の横に潜り込んだ。
「大丈夫ですか?」
公瑾の言葉に、意識のない花は当然答えない。青白い顔をしているから、また夜のうちに吐くかもしれない。
公瑾は苦笑いをして横になった。

「まったく……あなたという人は本当に私を思ってもみなかった道へと導く」

自分もいつかは結婚するだろうと公瑾は思っていた。
それなりの家柄のそれなりの外見の女性とそれなりの時期に。当然初夜もそれなりに終わるだろうと思っていたのに。
「すべて真逆とは」
公瑾はおかしくなって一人でクスクスと笑った。
しかしそれが嫌だとはこれっぽっちも思わない自分も不思議だ。10年前の自分に、将来のお前の奥方は、どこから来たともしれぬ変な服を着た文字も読めず舞いも楽器もできない、生意気な少女で、初夜は酒に酔った彼女の看病で終わるのだと教えたら即座に『嫌だ』と言っただろうに。

しかしまあ……10年前に思い描いていた女性と結婚するよりは、今の方が幸せなのですから私も変わったものです。

公瑾はそう思いながら幸せな思いで初夜を過ごしたのだった。





次の日。
二日酔いで苦しんでいる花(昨夜のことは何一つ覚えていなかった)に、薬湯を飲ませるように指示をして、公瑾は城へと行った。
新婚なのだからゆっくりしようかとも思ったが、花は今日は地獄の苦しみだろうから一人でゆっくりしたいだろうし、公瑾も仕事が山積みなのだ。
執務室へ行く途中で仲謀に偶然会う。
仲謀が驚いた顔をした。
「なんだ?出てきたのか」
「はい」
「花は?」
「具合が悪く今日一日ふせっていると思います」
「んなっ…!!」
仲謀は顔を真っ赤にして絶句した。
「お、おま、え……!おまえ、ゆ、ゆうべ、何したんだよ!あいつは、そんな、そんな、経験豊富とかじゃねえんだから、最初は、ほら、手加減っつーか、いやお前も男だからがーってなったのはわかるけどっっ」
「勘違いなさらないでください」
仲謀の動揺を、公瑾は氷の声と視線で止めた。
「彼女の具合を悪くしたのは私ではなく、大喬殿、小喬殿、尚香様です」
「はあ!?」
ちょうど廊下の向こう側からやってきた大喬、小喬、尚香が近づいてきて、仲謀と公瑾が何の話をしているか察すると、しゅんと小さくなって再び謝る。
「ごめんなさい……そんな大変だったんですか……」
珍しく反省している様子の彼女たちに、公瑾はため息をつくと苦笑いをした。
「まあ……反省していらっしゃるようですし、私も……」
公瑾は、昨夜の花から聞いた幸せな言葉の数々を思い出し、柔らかくほほ笑んだ。

「私も昨夜は、生涯の思い出になるような得難いものを彼女からもらえましたのでね、許すことにしましょう」

では、執務室に行ってまいります。と去っていく公瑾の背中を、目を見開いた仲謀、尚香、大喬、小喬が食い入るように見ていた。
「……ね、得難いものって……」
「昨夜あいつからもらったって言ってたな……」
「まさか……」
四人で顔を見合わせた。大喬がズバリ言う。
「……処女のことだよ」
「で、でも、花さん昨夜は意識がなく夜中に何度も吐いていたって……」
仲謀が青ざめる。
「マジかよ……そんな状態で…」
小喬が肩をすくめて体を震わせた。
「うわー…ひくわー」
大喬も顔しかめる。
「公瑾さいてー」
尚香が仲謀を見た。
「お兄様、公瑾に言ってやってください」
皆に見つめられた仲謀は、ぱちぱちと目を瞬いた。
「お、俺が!?言えるわけねーだろ!」
「でも!花さんがかわいそうです!お兄様はそう思わないのですか!?」
「いや、思うけど…!」


後ろで自分がとんだ恥知らずになっていることも知らず、公瑾は軽くなった心でサクサクと仕事をこなしていたのだった。








つづく