【掌中の珠11】 


 



それから一月ほど時間が過ぎ。
花の乗馬の腕も読み書きも順調に上達していたころ。

回廊の二階部分を歩いていた孟徳は、ふと声が聞こえたような気がして、いつもはあまり行くことの無い回廊の裏側へ足を延ばした。
もう少しはっきり聞こえてきたのは笑い声。
今朝耳元で聞いたのとは違う、あけっぴろげな『大笑い』という言葉がびったりな彼女の声が聞こえてくる。
二階にある回廊から、孟徳はきょろきょろと一階部分のあちこちを探した。

あ……あれかな?

厨房の裏側、木の葉にさえぎられて二階のここからははっきりとは見えないが、今朝花が着ていた服と同じ薄い桃色の着物がチラチラと見える。木の下に座って、他にだれかとなりにいるようだ。
城の中で彼女があれほど心を許した笑い声をあげる相手が自分の他にもいるのかと、孟徳は興味をひかれた。それと同時に、相手によってはもう二度と花に会うことはもちろん、登城すらも禁止にすることもありうるとも思う。
彼女のあの笑顔を独り占めする自分以外の人間は、正直言って邪魔だ。
話している相手はよく見えないが、一人ではないようだ。
孟徳は葉に隠れず見えるところまでまで歩いた。

……こども?

花の相手は子どもだった。二人いる。
孟徳は小さくため息をつくと、苦笑いをする。ありもしない妄想に一瞬冷たい炎を燃やした自分がおかしい。

あの子は小さい子には優しいしな。
出入りの商人の子どもとでも友達になったのかな。

ふと風向きがかわり、花と相手の声がはっきりと孟徳に聞こえてきた。当然ながらその声は、まだ少年のものだ。
何やら熱心に話し込んでいる。
なにを話しているのかと孟徳が耳を澄ませると、
「だからさ、この印は何なの?読み書きではならってないよね?」
「習ってない……けどね、この十字みたいな印は、左側と右側の数を足すっていう意味なんだよ。それでここをこうして……」
「そんなことしないで、こうやって石を置いて数えればすぐじゃん」
「でも、数がたくさんになったらこっちの方が楽なんだよ。これはまだ練習だから簡単だけどもっと難しくなった時にこれを知っとくと便利なんだよ」
「えー…」
「ほら、これやってみて」

何か教えてるのか?

孟徳は手すりに頬杖をついて、風に乗って聞こえてくる花の声に耳を傾けた。どうやら子どもたちに文字書きや計算を教えているらしい。
また思いもよらないことを……と孟徳が面食らいつつ眺めていると、反対側の木の陰から花たちを覗いている別の影に気が付いた。孟徳の位置からはう後姿しか見えないが、すぐに誰かはわかる。
花の読み書きの教師だ。
彼女の父親が、孟徳のやり方に反対して仲間を集めていたという情報が入っている。彼女の父親は牧でその領地は玄徳とも近いし、その娘であるあの教師も要注意人物の一人ではある。
まさかとは思うが、父親からスパイのようなことを依頼されて探っているとも考えられる。
「……」
図らずも、花と教師と両方について観察できる機会ができたと、孟徳は興味深く二階から地上の様子を見守った。




突然あらわれた先生に、花はびっくりした。
午後の遅い太陽の光が、先生を後ろから射していてまぶしい。
少年二人も、先生のきっちりした様子に叱られるのかと身構えた。
しかし先生は地面の上にかかれた足し算と引き算の方を興味深げに眺めていて、とがめることもなく、なんと子どもたちと一緒に花の授業を受けることを望んだ。
やりにくかったが、先生は変にからかったり厳しいことを言ったりもせず、真面目に小学生レベルの足し算の説明を聞いていた。花とは雰囲気の違う、落ち着いたきれいな先生に、少年たちはどこか緊張したようにいい生徒で説明をきいている。
授業が終わると、少年たちは明るく挨拶をして走って帰って行った。
花と先生はその背中を見守っていた。
ポツンと先生がつぶやく。
「……変な言葉とかそれの書きを質問されるのでどうしてかと思っていましたが、ここで彼らに教えていたんですね?」
花は頬が赤くなるのを感じる。
「はい……、あの、はい。すいません」
「謝ることなどないのですよ。あの子たちもきちんと読み書きの基礎ができていたので驚きました。あなたが教えたのでしょう?」
「一応……。私も、ここで復習になってるので、よかったなって思います」
先生は立ち上がると、裾についた土を払う。
花も立ち上がった。
先生がまじまじと花を見ているので、それが何か居心地が悪い。

なんだろう、こういう城ではこんなところに座り込んでちゃだめ、とかかな……それとも勉強は、ああいう商人の子には教えちゃいけないとか極まりがあるとか?何か叱られるのかな?

「なぜ、あの子たちに教えているのですか?」
叱られるのではなく質問だった。
先生は真面目な顔で花をまっすぐに見ている。
真っ黒の瞳かと思っていたが、先生の瞳の色は薄い茶色だった。南の方の土地の人だから、ヨーロッパの方の血とか入ってるのかなと、花は頭の片隅でちらりと思った。
「えーっと……」
成り行きで、なんとなく、などと適当に言おうかと花は思ったが、先生の真剣な瞳を見てそれは失礼かなと思う。
「……私、遠い国からきたんですが……」
「はい」
「そこに、弟がいるんです。あの子たちを見てなんとなく弟を思い出して。ここであの子たちに親切にすると、私の国でも弟が誰かから親切にしてもらえるかもしれないなって思って」
「弟さんが……」
「はい。私、家族になにも恩返しもできずにこっちにきちゃったんです。もう帰れないだろうし……。それに、私の国では、国の基本は教育だって、習っていたので。ちっちゃなことですけど、きちんといろいろ教えてあげれば、将来この国をよくするための人になってくれるかなって思ったんです」

日本とは違う、冬でも強い太陽光線が、木々の葉の影を先生の上に色濃くつけていた。
先生の顔はちょうどその陰になっていてはっきりとは見えないが、それでも驚いたのが感じられる。

「国、ですか?」
国というところに驚いた先生に、花も驚く。
「はい。変ですか?」
「いえ、あなたのような……立場の方が、国のことを考えられるとは思っておりませんでしたので……」
「私も、この国にくるまではそんなこと考えたことなかったです」
花は照れ笑いをした。
「この国にきて、玄徳さんに拾われて師匠……孔明さんにもいろいろ教わりました。玄徳さんのところでも戦争で親を亡くした子をたくさん見て、土地を追われる人たちについても知りました。元譲さんや文若さん、孟徳さんのそばにいていろんな考え方を聞けて、どうすればみんなが幸せに暮らせるようになるんだろうって考えるようになったんです」
それに加えてあの『本』の存在も大きかった。
自分の策一つで、何千、何万という人達が死ぬかもしれない。
その人達にはきっと、恋人や奥さんや両親や……その人たちを頼りにしている人、その人達を大事に思っている人達が当然いる。
戦が日常の世界で、人の命の責任を背負って、花はいやおうなく考えるようになった。

どうすれば誰も悲しむことなく暮らすことができるのか。
一部の人だけではなく公平に、富を分けることができるのか。

戦いを避けているだけではだれも救えないと、孟徳から教わった。
彼は自分が矢面にたってリスクをとって変えようとしている。そんな孟徳を、純粋にすごいと思うのだ。
失うことを恐れず確実に実行する彼の強さとしたたかさが、花をひきつける。
そして花もそんな彼の手伝いが、少しでもできないかと思う。

『国』について考える。
一歩一歩自分にできることをふやしていく。

今の花にはこんなことしかできないが。

先生は驚いたような顔で、目を見開いて花の顔を見ている。
「あなたが……そんな考えの方だとは思いませんでした。その……」
そして何かを迷うようなそぶりを見せる。
「なんですか?」
「その、そんな考えで丞相のおそばにいるのは、お辛くはないのでしょうか」
先生の問いの意味が分からず、花は目をパチパチと瞬いた。
「いいえ。……どうしてですか?」
「……私には政治のことはよくわかりませんが……、丞相は台風の目、全ての戦の根源ではないかと思うのですが。あの方の思うところに争いやいさかいが生まれ、結果として多くの民が傷ついたり死んでしまったり財産をなくしてしまったり……。あなたにとって胸が痛く辛いことではないのでしょうか?」
花は、先生に言われたことについて考えた。

確かに表面だけを見ると先生の言う通りだ。
だが、花が見ているのは違う景色だった。
「えーっと……私とか先生とか、あと孟徳さんもそうですが、私たちは幸せなんだと思います。でも……私、城から城に旅しているときに見たんですが、畑も荒れてみんな痩せてたいへんそうでした。一生懸命働いてるのに。でもこのお城やお城の周りには、働いていないのにすごくいい暮らしをしている人がたくさんいますよね。孟徳さんはそういうのを変えたいんだと思うんです」
「……貧しい者達の救済ということですか?それは素晴らしいことですが、でも今ある秩序をすべて壊してしまったら、飢える人がもっと増えませんか」
花は、どういえば伝わるかを考えた。
孟徳の考え方は、この時代のこの立場では異端なのだとわかるくらいには、花はこの国になじんでいる。
「その秩序が、古くなって働かなくなってる孟徳さんは考えてるんだと思います。だから新しい秩序を作ろうとしているんです」
「新しい秩序なんて…!そんな……漢王朝は何百年も続いてきたもので変えられません」
「変えられます」

花はきっぱりとそう言った。
「孟徳さんならできると思います。たとえば古い秩序のままでも、だれも飢えたりしなくて、反乱も起きなければそれはそれでいいんです。飢えたり悲しい思いをする人も少なくて、みんなが幸せに暮らせてるなら……。でも今は違います。だから変えないといけないんです」
「そんな……そんな、これ以外のいったいどんな秩序が?結局は丞相一族のみが更なる繁栄をする秩序なのではないですか?」
それは違う。孟徳の望みはそんな小さなものではない。
花は考えるように首を傾けた。
「私も全部わかってるわけじゃないんですけど……たぶん、孟徳さんは、家柄とか生まれとかじゃなくて能力によって職についたり出世したりする世界にしたいんだと思います」
過去にタイムスリップした時に、孟徳が言っていた言葉の意味を、今の花なら少しはわかる。
玉璽を持った赤ちゃんに対して、孟徳はだたの赤ちゃんだと言っていた。こんな赤ちゃんに玉璽を持たせて、いったい何をしたいのかと。皇帝になり、多くの人の命を左右するような事について判断するのは、それにふさわしい能力を持った人がやるべきなのだ。あんなちいさな、能力もまだわからない赤ちゃんがやると既にきまっていることがおかしいのだ。
血統や縁故ではなく、その『職』に必要な資質において一番すぐれた人が『職』につくべきで、、『皇帝』も『職』の一つだと。

現代の知識を持っている花には、孟徳の考え方は抵抗なくうけいれることができる。
だが、この時代では難しいだろう。皇帝もただの人間だと言うことは重い罪になることもあるかもしれない。
根拠のない『皇帝』という権威によって政をするには、権威が地に落ちすぎてしまった。
あらたな権威をつくるか、能力主義による新たな秩序をつくるか。
孟徳は後者をとったのだ。

ひいひいひいおじいちゃんがどんなに立派な人でも、今の人には恐れ多いとか思えなくなっちゃうんだと思う。
だから能力のない人が代々皇帝をやれば、こういうふうに世の中がぐちゃぐちゃになるのは普通のことなんだ。
お金を、頑張った人が頑張った分もらえるようにして、国全体が豊かになれば、飢えたり苦しんだりする人がきっと減る。
そうすれば不満を持つ人も少なくなって反乱もなくなる。
ずっと畑をたがやしたりお商売をしたりしていけるようになるんだ。

多分孟徳さんがつくりたいのは、そんな世界。

花の言ったことは、先生にはよくわからないようだった。
何も言わず、困惑したように花を見つめる。
先生に説明するために言葉にしたことで、花にははっきりと孟徳が考えていること、自分がしたいことがわかった。

私はそんな孟徳さんのそばにいたいんだ。
そばにいて、辛いときは傍でなぐさめて、孟徳さんが鮮やかに世界をひっくり返すのを見ていたい。



冷たい風が吹き、孟徳の眼下の葉を揺らした。

ちょっとしたのぞき見と立ち聞きと思って足を止めたのだが、思ってもみなかった会話が耳に入ってきて、孟徳はその場からうごくことができなかった。
「……まいったね……」
頭の中が混乱して、自分でもよくわからない感情が渦巻いている。
理解されなくていいと思っていた。いや、理解してほしいと思っていたのか?理解できるはずなどないとうぬぼれていたところもあった。
生き残るために正解を選び続け、その先にあるものを見据えた時に出した解。
隠していたわけではなかったが、誰かに説明したこともない。

あふれ出るほど嬉しくて、信じられないほど愛おしくて、震えるほどに恐ろしい。

共に死線をくぐり抜けてきた仲間よりも、親兄弟よりも。
ここまで自分の魂の近くに誰かがいるということを、孟徳は想像したこともなかった。
そしてその存在が、好きな女であるということはよかったのか悪かったのか。

「単なるかわいい女の子だったらよかったのに」
自分にとっても彼女にとっても。

それならどうすればいいのかわかる。
今の状態は孟徳にとっては初めての事態でどうすればいいのかわからない。

手のひらの中で淡く輝く美しい球を、握りつぶせばいいのか大事に包み込むのがいいのか。






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