【掌中の珠15】 


 


蝋燭の光がゆらゆらと揺れる。
城の廊下の壁には灯りが灯して有り明るいのだが、現代日本に比べれば暗闇があちこちに潜んでいて、花は少しだけ不気味だった。以前、夜の廊下で男に絡まれたから余計そう思うのかもしれない。
「すいませんでした。こんな夜遅くに……」
花が申し訳なさそうにそういうと、侍女は「いいえ」とほほ笑んだ。
「丞相からも厳しく申し付かっておりますもの。花様が私をよばずに一人でお部屋を出られなくてよかったです。あとでそれが丞相に知れたら、厳しくおしかりを受けるところでした」
花は、部屋を出る寸前に思い出して侍女を呼んでよかったと、ほっとした。花のうっかりのせいで侍女が叱られたらかわいそうだ。
城内を夜歩くときは一人では歩かないというのは、孟徳との約束なのだ。
「そうなんですか。孟徳さん、侍女のみなさんにももうそのことを伝えてたんですね」
侍女はうなずいた。
「そりゃあ、丞相は厳しい方ですもの。あの方がいらしてから城内の規律が厳しくなりました」
あっさりそう言った侍女に、花は聞いた。
「……孟徳さんのもとで働くのは、嫌ですか?」
「まあ!」
侍女は驚いたように花を振り向き立ち止まると、袖で口元を押さえて優雅に笑った。
「そんなことありません。逆です。皆働きやすくなったって言ってます」
そうしてまた歩き出した侍女について行きながら、花は思う。

そうか、そういえば孟徳さんは人を見る目があるって玄徳さんたちも言ってたっけ。優秀な武将は敵であろうと大事に扱うし、みんなをうまく使うって。適材適所っていうのかな。この侍女さんも、孟徳さんを信頼してるみたいだし。
当然だけど……やっぱりすごい人なんだ。

孟徳の部屋の前で侍女は立ち止まった。
中の様子をうかがう。
「……いらっしゃらないようです」
「そうですか……」
最近いつも花の部屋に来て眠る孟徳。
会議や仕事でどんなに遅くなっても、先に花が寝ていても、孟徳はいつも花の部屋に来てあの狭い寝台で眠るのが常になっていた。のに。
今日は来ないのだ。
別に約束をしているわけでもないし、孟徳がいなくても眠れなくはないのだが、花は何か心配で侍女を呼び出し孟徳を探しに来たのだった。
「あの、丞相も他の方のお部屋に行かれることもありますし、あまりお気になさらず今夜はもうお休みになってはいかがですか?大丈夫です、丞相がここまで長く夢中になった女性は花様だけです。明日にはきっと花様のお部屋にいらっしゃいますわ」
侍女は、孟徳は今夜は他の女性のところにいるのだと言っているのだ。
花はそれに気づいて、うつむいた。こういうところにはいつまでたっても慣れない。

そうかもしれない。
そうかもしれないけど……

花は最近の孟徳の様子を思い出した。
花には明るく優しい表情だったが、疲れている風だった。頭を指先で撫でていて、あれは頭痛がしてたんじゃないだろうか。
他の女性のところに行くような風には、花にはみえなかった。
「あの、すいません。もう一つだけ部屋に行ってみてもいいですか?」


窓がほんの少しだけ空いていて、ぼんやり見える室内の机の上には消えかけの灯りが揺らめいている。
誰かが……多分孟徳がいる印だ。
侍女と花は目線だけで会話をし、侍女は去って行った。
花はそっと孟徳の執務室の扉を開ける。
「……孟徳さん?」
まさかとは思うが、侍女が言っていたみたいに他の女性といたりしたらどうしようと思い、花は小さく声をかけた。
部屋は薄暗く、灯りは机の上の小さなものだけ。
机には竹簡が山と積まれており、墨の入った硯に使いかけの筆。孟徳が飲んでいたのかお茶らしきものが入った椀。
それ以外には誰もいなかった。
机の両横にある脇机にも、竹簡が山積みだ。
花は机の後ろ側いにある衝立の向こう側を覗き込んだ。

いた……

孟徳が長椅子の上で眠っていた。
眠る寸前まで読んでいたのか、竹簡で顔を覆ってお腹の上にも竹簡が二つのっている。
「こんなところで寝ると風邪ひいちゃいますよ」
花は小声でそういうと、自分の肩掛けを外して孟徳の上にそっとかけた。

「ん?」

孟徳が気づいた。
動いたせいで顔の竹簡がずれて落ちる。
「あれ?花ちゃん?」
「起こしてすいません。風邪をひいちゃうかと思って……」
いざ掛けようという体勢になっている花の肩掛けを見て、孟徳は起き上がった。
「ああ、寝ちゃったんだ。悪かったね、こんな遅くに」
「そんな……私が勝手に孟徳さんを探してきたんです。邪魔してすいません」
孟徳は寝椅子の上に起き上がり片膝を立て、その上に腕を乗せて周囲を見渡した。
「ああ、そっか。君の部屋じゃなかったっけ」
寝起きのせいかどこかぼんやりしている孟徳に、花は言った。
「もうお仕事は終わったんですか?ちゃんと寝ないと体に悪いです。部屋に戻りませんか?」
「うーん……」
どうするとははっきり言わない孟徳。
「……部屋には、戻らないんですか?その…いつもみたいに……」
私の部屋に。
とは言わなかったが。
孟徳は苦笑いのような自嘲のような微笑みを浮かべて花を見た。
「……あんまり、優しい顔ができない気がしてね、今夜は」
困ったような孟徳の微笑みに、花は胸が痛くなった。

「優しくなくても、別にかまわないです」
「そう?」
本気にしていなさそうな孟徳に、花はもう一度重ねて言う。
「どんな孟徳さんでも好きです」
孟徳の微笑みが、心からのものに柔らかく変わる。
「そっか……」
そしてしばらく考えるように頭を傾ける。
「疲れて、頭痛がしてて、ため息ばっかりついてる俺でもいい?」
「全然いいです」
花はそういうと、長椅子の孟徳の横に座った。そして、手を伸ばして孟徳を自分の胸に抱き寄せる。
自分からこういうことをするのは初めてで緊張したけれども、孟徳は本当に疲れて傷つきやすくなっているように見えて、花はいてもたってもいられなかったのだ。
孟徳は一瞬驚いたような顔をしたけれど、特に抵抗もなく花の胸に寄りかかるようにして横になった。花は長椅子の肘沖部分に背中を預けて、自分の肩かけで孟徳を包み込むようにして抱きしめる。

「頭痛がするんですか?」
暗い部屋、静かな空気。
花は耳元で囁くような声で言った。それなら大きな声や灯りが刺激になって不快に違いない。
花は指で孟徳の首筋や額をそっとマッサージするようになでた。
「……うん、ここしばらくね」
「……」
沈黙が部屋を満たす。
孟徳がぽつりと言った。
「何か聞いてる?」
「……噂ですけど、また魏王の話が出てるって……」
「そう。よく知ってるね」
「それで頭痛が?」
孟徳はわずかに頷いたのを感じる。
「前に花ちゃんが言ってくれたみたいに、魏王になることで余計な恨みや妬みを買うことになるし、俺を追い払いたい奴にとっていい口実をあたえることになってしまう。でも、漢王朝の臣下である限りどうしてもできないこともある。それに、命と財産を俺に預けて戦ってくれた部下たちの望みを、むげに断るわけにもいかない。悩ましいところでね」
「そうなんですか……」
珍しく吐く孟徳の弱音を、花は彼のこめかみのあたりををなでながら聞いていた。
「今のままではこの国はダメなのは明確だ。でも俺がわざわざ火中の栗を拾う必要があるのか?とも思うし、でも俺じゃなきゃできないとも思うしね。何が正しい答えかはわかってるんだ。わかってるからこそ、その答えを俺がとることにためらいがある」

だから悩んでる。
考えてる。
頭が痛くなるくらい、よく眠れなくなるくらい。
この人は、深く、深く、常人の考えの及ばないところまで深く考えているんだ、と花はなぜか泣きたくなった。
誰にもわからないくらい深い思考。
張り巡らされた計算と、その上に配置されている人物考察。
あらゆる角度から考え尽くされたそれにたいして、彼はさらに一人で、暗闇の中で禅問答を繰り返し、答えを見つけようとしている。
そしてそれを理解してくれる人は、たぶんこの世界にはいないんだろう。

昼間に先生に言われた言葉が浮かぶ。

『丞相は、意志も強く失敗もせずに悩まずとも答えを手にできるでしょう。でもあなたは悩み惑い、失敗をして傷つかれることもあると思います』

違う。
孟徳さんだって私と同じ。
失敗もするし傷つきもする。
人より深く考える分、悩んで傷つくのも深いはず。

「孟徳さん……」
花がそう言った時、机の上の灯りが最後の油を吸ったのか、一度大きく灯ってからふっと消えた。
部屋は真っ暗になるが、暗闇に慣れた花の目には、うっすらと孟徳の顔が見えた。
「ん?」
「私が前に、私のもといた国の乗り物で、飛行機の話をしたのを覚えていますか?」
突然変わった話に、孟徳が気をひかれたのが花の腕に伝わってきた。
「うん、覚えてるよ。鉄の塊が飛ぶとか、気軽に旅行に使ってるとかすごい話だと思ったから」
「私にとって、孟徳さんは飛行機なんです」

孟徳は起き上がって花の腕から出た。そして花の顔をまじまじと見る。この話がどこに行くのか探っているみたいに。
「飛行機?俺が?」
「そうです。私は飛ぶことなんてできなくて、地上で見送ってるんです。孟徳さんが空を自由に飛び回ってるのを」
「……」
「それで、飛行機は飛ぶために、向かい風がどうしても必要なんだそうです。だから自分で助走をつけて向かい風を作って、そしてその向かい風に乗って飛び上がるんだそうです」
孟徳は、少し笑うと寝椅子の背もたれに寄りかかり、楽しそうに花を見た。
「それが、俺?」
花はうなずく。
「孟徳さんは、空を飛べる人で向かい風も自分の力にしてもっともっと高く飛べるんです。孟徳さんは頭がいいからいろいろ考えちゃうと思うんですけど、そういう背負ってるものは全部置いて、身軽になって飛んでください。もっともっと高く、誰も行ったことがないところまで。そしてそれを私にも見せてください」
「背負ってるもの……」
花はうなずいた。
「それが重くて、孟徳さんが飛べないのはよくないって私は思うんです。荷物を振り落しちゃうんじゃなくて、いったん置いて……なんだったら私に背負わせてください」
深く悩むのは、より高く飛ぶため。それの邪魔になるしがらみなんて孟徳さんには気にしないでほしい。
花が前のめりになってそういうと、孟徳は驚いたように瞬きをした。「君に?」
「はい!……あ、でも持ちきれないかも……置いて行った荷物の管理みたいな感じなら、教えてもらえれば私にもできないかな……能力不足なのはわかってるんですけど、孟徳さんの荷物をきちんと管理できるようになるように勉強も乗馬もがんばります。だから孟徳さんは、思うように自由に、行けるとこまで高く飛んでほしいって思います」
「高く……」
花は、驚いている孟徳ににっこりと笑った。
「はい。好きなところまで。孟徳さんが行きたいところまで」
その答えは、たぶん正しい。
悩んで考えぬいたその道は、きっと正しい道だと思う。


暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる花を、孟徳は妙に心もとない不安定な気持ちで見ていた。
温かな膝の上で。
柔らかな胸の中で。
体を丸めてしくしくと泣きたいような甘えたいような不思議な気分だ。
抱きしめたいのか抱きしめられたいのかよくわからない。
叫び出したいほど嬉しくて、愛しいと言う思いが溢れて、でもいつもとは違いそれを外に出すことはできなかった。
花への思いが、感じたことがないほど深すぎて。

孟徳は再び花の胸に頭をもたせ掛ける。
「君はなんでそんなに優しいの」
花の細く白い手が、孟徳の額を優しくなでる。
「私?やさしいですか?」
「そんなに優しくしてもらえるほどのことを、俺は君にしてるかな」
独り言のような孟徳のつぶやきに、花は黙り込んだ。
孟徳は話が終わったのかと心地いい花の腕の中で、久し振りに感じる心地いいい眠気がじわじわとしみこんでくるのを感じていた。

「……私が、もし優しいんだとしたら……」
ずいぶん長い沈黙の後、花の声に孟徳は浅くさまよっていた夢から戻った。
「もしそうならそれはたぶん孟徳さんが孟徳さんだからだと思います」
孟徳は瞼を閉じたままほほ笑む。
「謎解きみたいだなあ」
「孟徳さんが、たくさんみんなの荷物を背負って高く飛ぼうとしてるから。孟徳さんにはその力があって、でも生まれつきのものだけじゃなくて、悩んだり傷ついたりしてつけた力だから、優しくしてもらえる資格があるんです」
孟徳は小さく笑う。
「すごい応援団だね」
「ちゃんと向かい風から逃げないで、自分の力にできないか考えて行動して……私みたいな何も持ってない人間に優しくしてもらうのには十分だと思います」
花が現れるまでのとげとげしくピリピリしていた孟徳の神経は、柔らかく暖かく心地いいものに包まれて落ち着いていた。
花が自分とは違う人間だとは思えないくらい近くに感じる。でも、自分とは違う人間だからこそ、こんなに心が素直できれいで惹かれるんだろうとも思う。
そして、自分ではないからこそ、この不安も感じるのだ。
「何も持ってない、か……」
「もっと孟徳さんの手助けができるようにいろいろできればよかったんですけど。あとは元譲さんみたいに剣が強いとか、文若さんみたいに有能だとか、親族がお金持ちとか……でも、何も持ってないから失うものもないですよね」
「……」
そこが怖い。
何も持っていないというのは、花は弱点だと思っているようだが実は孟徳に対しては強みになるのだ。
利用できない。
そして利用されることもできない。
だからいつまでたっても自分のものにしたという実感を得られないのだろうか。

花の優しい腕が孟徳の肩に回されて、孟徳のきつく縛り上げた頭痛がゆっくりとほどけていくのを感じる。
もう彼女を放すことはできない。以前も大事にしていたけれど今はもう……日々を重ねるたびに孟徳の中で花の存在が大きくなり、彼女を失った状態は考えれられない。
孟徳は優しく抱きしめられた花の胸の中で、体の力を抜いて全身を預けながら考えを巡らせていた。
いっそ自由を制限して、拘束して、孟徳にしか会えないようにしてしまったら気が楽になるだろうと思う。彼女がもう自分から離れていくことを恐れる必要はなくなるのだ。
人間は弱い。
会える人間を制限し、動ける場所を制限すれば、自分の命を左右できる人間に対して気に入られようと本能的にするものだ。
孟徳はその媚びをいやになるほど知っていた。
そんな彼女は孟徳の好きは花ではないけれど、それでも去られるよりはいい。
今のままの彼女でいてほしいという思いと、自分に絶対服従せざるを得なくなる彼女が欲しいという思い。
最初はとれていたバランスが、思いが深くなるにつれ崩れていく。

やさしくこめかみをなでる手と、花の優しいにおいに包まれて、孟徳はいつの間にか眠りについていた。



















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