【掌中の珠 3】 



  
「丞相におかれましてはますますのご繁栄、我ら一同心よりお喜び申し上げます」

一番前の男が手のひらを前で組んで丁寧に頭を下げると、後ろに整然とならんでいる大勢が一糸乱れぬ動きで同じように深く頭を下げた。
一番前の男は豪華刺繍が入った黄金色の服を着て、後ろに並んでいる男たちは濃紺の地味な服。
豪奢ななこの城を背景に、視覚効果は絶大だった。
しかしそこからかなり離れた上段に座っている孟徳は、退屈そうに手を目の前で軽く振っただけだった。
あちこちにはねた茶色の髪に濃い茶色の瞳。
明るく人懐っこく輝く時もあれば、今のように冷たく底深く観察するように光るときもある。
今のような眼をするときは、目には見えない人間の力学、権力の効果について客観的に図っている時だ。
精巧な彫りが施されたつややかな幅広の椅子の肘掛に肘をかけて、満腹した虎のようにのんびりと全身の力を抜いている。が、いざとなればすぐに飛びかかれるようにまとう空気は張りつめているのも虎に似ていた。

「ああ、呂常の息子か。父上はご健勝か?」
しばらく間をおいて孟徳が声をかけると、黄金色の服の男は「ははっ」とさらに深く頭をさげた。
「丞相のご威光のおかげで、つつがなく政務につかせていただいております」
孟徳は鷹揚にうなずき会話を終わらせようとした。
「せっかく来たのだからゆっくりしていくといい。今夜は歓迎夜会を開く予定だ。楽しんでくれ」
「ありがとうございます!」
「じゃあ、下がって……ん?それは?」
濃紺の男が黒子のようにすっと何かを黄金色の男に渡す。目ざとく聞いた孟徳に、黄金色の服の男は、少しもったいぶって箱をあけてみせた。
「玉でございます。我らの地方は良質な玉がとれることはご存じだとは思いますが、先日特にすばらしいものがとれまして。100年は生きている翁も、これほどのものは見たことがないと言うほどのものです」
「どれ」
孟徳が人差し指で空を切るようにすると、壁のあたりで直立不動の姿勢をとっていた孟徳の部下の一人が、さっと動いて黄金色の男のそばまで行き、玉の入った箱を受け取った。
階段を上ることが許されているさらに位が高い別の部下がそれを受け取り、その箱は孟徳の手に届く。
あけてみると、中には驚くほど深い緑の美しい玉の首飾りが鎮座していた。
深い色合いのとろりとした緑色の玉の首飾り。
さすがの孟徳も片眉をあげる。
「これは……素晴らしいな」
「おほめに預かり光栄です。聞くところによると最近お美しい奥方様をお迎えになられたとか。喜んでいただけるといいのですが」
「そうだな。喜ぶだろう」
ほほ笑んだ孟徳に、皆がほっとした顔をする。
それを眺めながら孟徳は、花にこれを見せたらなんと言うだろうかと考えていた。
あまり物欲がない子だからそれほど喜びはしないだろうが。
だが、あの華奢な首周りに重たげなこれをつけたらさぞかし映えるだろう。

孟徳はこの首飾りをつけた彼女の姿を想像する。
少女から女性へ変わりつつある今の彼女には、この高価な首飾りは少しアンバランスで。そのせいでその危うさが妙にそそられる。
髪はあげたほうがいい。首飾り以外はつけないで、着物はあの深い青色のものがいいな。特に嫌がりはしないだろう。あの子は素材がいいのにあまり着飾るのが好きじゃないからな。まあ自分の魅力に無頓着なそんなところもかわいいんだけど。

そこまで考えて、孟徳は小さくうなずいた。
今日の謁見はこれで最後だ。終わったらこれを花に自ら渡しに行こう。
「さっそく今夜つけてくるように頼むとしよう。では、夜会までゆっくり……」
孟徳が再び手を振って謁見を終えようとしたときに、黄金色の服を着た男がもう一度頭を下げた。
「丞相、申し訳ないのですが、内々にご相談したいことがございまして……。これからお時間をいただけないでしょうか?」
「……」
しばらく考え、孟徳はあっさりとうなずいた。
今の情勢で話ときたら、たぶんアレのことだろう。と、いうことは聞いておいた方がいい。
花との楽しい午後が消え、孟徳は心の中でため息をついた。



「呼んだか、孟徳」
バタンと扉があき、空間をふさぐようにして元譲が現れた。戦場で鍛え抜かれた大柄な体は近くで見るとかなりの威圧感だ。だが、慣れた孟徳には全く気にならない。
「ああ、来たか。これをあの子に持って行ってあげてくれないか」
孟徳の手の中にあるものを見て、元譲はため息をついた。
例の首飾りが入った箱だ。もしかしたらこうなるのではないかと思っていたのだ。
「自分で行けばいいだろう。あいつも喜ぶ」
孟徳は肩をすくめた。
「そんなのわかってるさ。俺だって彼女が喜ぶところを見たい。だけどお前も聞いていただろう。あいつが内々に話したいってことは……」
「……例の件か」
「そうだな、たぶん。午後は体が空かない。元譲も後からでいいから来てくれ」
元譲は唸り声のような溜息をついた。同意のしるしだ。
元譲がのばしたいかつい手のひらに、孟徳は先ほどの玉が入った箱を置く。出ていこうとした元譲の背中に、孟徳が言った。
「あ、気に入ったかどうかも聞いてきてくれ。それから夜の宴会にも出てほしいってのも伝えて」
返ってきたのはさらに盛大な唸り声。
それを残して元譲は扉を閉めて出ていった。


花は広い廊下の欄干からさわやかな秋の庭を眺めた。
花が育った日本とは違い、こちらは空気が乾燥しているせいか秋というより冬の初めのような気候だ。でもまだ寒くはなく。暑くもなくていろいろと活動しやすい時期なのに。
「……暇だなあ……」
花はつぶやいた。同時にあくびも出てしまう。
「なんにもすることがない……」
こんなに何もすることがない日なんてこれまでなかった。
中学校、高校と勉強したりテレビを見たり友達と遊んだり。何にもすることがない日だってそりゃあったけれど、そういう時は本や漫画を読んだり音楽を聞いたりしていた。
友達ができないかと女官たちに話しかけてみたけど、みな恐れ入って「はい」「かしこまりました」というばかり。孟徳が、話し相手が欲しいだろうといいところのお嬢様たちとお茶会を開いてくれたが、育ち方が全く違う花には価値観も話も合わず苦痛しかなかった。
と、なると後は残るは勉強だ。
「高校の時の勉強とは違って今はこっちの世界で知りたいことはたくさんあるのに」
花は抜けるように青い空を見上げて指を一本づつ折る。
「乗馬は……孟徳さんがいないとやっちゃダメ」
以前元譲に無理を言って頼み込んだ時、花が落馬してしまった。
たまたまその場に居合わせた孟徳の心配はただ事ではなく、以来花の乗馬は孟徳じきじきに教えてもらうことのみ許可されたのだ。
しかし、孟徳は当然ながら忙しい。
執務のほんの少しの合間を縫って昼間のうちに花の部屋に来ることもあるが、当然ながら疲れている。最近頭痛も頻繁になってきているようだし、ゆっくりしに来てくれた孟徳を引っ張り出してまで乗馬を習いたいわけではない。

花はもう二つ指を折る。
「厨房を手伝うのはだめで、料理は孟徳さんのごはんをたまに作るぐらい」
準備や後片付けは当然ながら下働きや女官がやるし、作るものも自分と孟徳の二人分だけ。
それも朝は孟徳が離してくれないから一人で朝ごはんを作りに行けないし、夜は飲みも兼ねた宴会が頻繁にある。孟徳に会いたいという人はたくさんいて、執務時間内に会えない人とはともに食事をとりながら会うらしいのだ。
たまに昼だけ花が作って一緒に食べることがあるが……
孟徳は花が作る変わった料理(孟徳からしたら)を面白がってよく食べてくれることぐらいが救いだろうか。

花は一つ一つ数えながらさらに指を折った。これで両手を使わなくてはいけない。
「掃除や洗濯は当然ながらできないし、縫い物や織物も」
どれもやろうとした瞬間に女官たちが集まってきて片っ端から取り上げられてしまう。
「剣は……」
剣も習ってみたいとは思ったが、一度孟徳が持っていた剣を持たせてもらってあきらめた。あれは持ち上げるだけで精いっぱいだ。もちあげて、自分の思う通りに振り回すなんて花が何年鍛えようとも無理だろう。軽い刀での護身術でもいいが、乗馬や料理さえ危険だと孟徳に言われているのに剣の使い方なんて習わせてもらえるとは思えない。

「と、なるとやっぱり読み書きだよね」
実はこれもすでに孟徳から断られているのだが。
今でも簡単な文字なら何とか読める。日本でいうと小学生低学年レベルだろうか。ちょっと複雑な文章になるととたんにあやふやになるし、書くことはほとんどできないのだ。
だが、この時代の字を読めるようになれば、この城の書庫にある膨大な量の書を読むことができる。書くことができれば、日記をつけていろんなことを忘れることなく覚えておける。
断れた理由は、読み書きを教えてもらうのが文若だったため教える間孟徳以外の他の男と二人っきりにさせるのは嫌だということだった。
つまり嫉妬だ。わがままともいう。
だが問題なのは、孟徳ほどの権力者になればわざわざ口に出して命令しなくても、周囲が孟徳の一挙一動に注目し彼のわがままに答えるように動いてしまうのだ。そんな中で花の希望を押し通すのは難しい。

それに普通に頼んだら、「俺が代わりに読んであげる」とか、「読める女官を一人、君専属でつけようか」とか言われて、結局「君には必要ないよ」って言われちゃうのが目に見えてるよね……

花は、「うーん……」と考えこんだ。
普通に頼んだらたぶん駄目だ。何か方法を考えないと。
花が空を見上げながら考えていると、後ろから声をかけられた。

「ここにいたのか」

ふりむくと、この城の中で心を許せる数人の中の一人が居心地悪そうに立っていた。
「元譲さん」
渡された箱を開けて、花は中に入っている首飾りの美しさに目を見開いた。
「すごいきれいです」
「孟徳からだ。今夜つけてほしいと」
「ありがとうございます」
花がにっこりと笑って箱のふたを閉めると、元譲は奇妙な顔をした。
「どうしたんですか?」不思議に思った花が聞くと、彼はいったん言葉を濁した後、しばらく考えてから口を開いた。
「……気に入ったか?」
「はい」
花はあっさりとそう答える。
「そうは見えんが」
元譲の言葉に、花は首を傾げた。

そうかな?
……そうかも

よく考えると、こういう首飾りが欲しかったとかそういうことはないし、あったらあったで嬉しいが無くても特になんとも思わない。
「……すいません」
花が謝ると元譲は慌てた。
「いや、別に謝ることではないだろう。俺が無理に言わせたようなものだ。あいつにはお前が最初に言った『気に入った』というのを伝えておく」
「でも……」

でも、孟徳は多分わかっているのではないかと花は思った。
この美しい玉が嬉しいのではなく、花に、と気遣ってくれた孟徳の気持ちが嬉しい。花がつけて孟徳が喜ぶと花も嬉しい。
「この首飾りは、そういう形にできない『気持ち』をのせるためのものっていうか」
うまく説明できずに花が言いよどんでいると、元譲はため息をついて頭をかいた。
「難しいことはわからん。……しかしお前はいつもその赤い耳飾りはつけているな。それは気に入っているのか?」
花は、今も自分の耳で揺れている赤い石のついた首飾りを指で触った。
孟徳と一緒に襄陽の城を抜け出したときに買ってもらったものだ。
「えーっと……これは、私のだなって思うっていうか……。こっちの緑のきれいな玉の方は『私のもの』っていうより『丞相の奥方様のもの』っていう気がします」
「……なるほどな」

たぶんこのつかみどころのなさが、孟徳が飽きずに夢中になっている理由なのだろう、と元譲は思った。
花本人もわかっているのかいないのか。
何をすれば彼女が心から喜び関心を得られるのか元譲にはわからない。
孟徳にも多分わからないだろう。それほど周囲にいる世間一般の女と違うのだ。
孟徳や元譲といった位が高い権力者に対してもこびへつらうことも卑屈になることもなく、全く普通に接してくる。かといって無礼というわけでもなく。
最初は、元譲はそれに驚き孟徳は面白がった。今は元譲は、彼女の裏表のない接し方に好感を持っていた。信頼に足る人間だと思う。多分孟徳もそうだろう。
ぼやっとしているように見えて裏の裏まで読んでいるかと思えば、幼児のような純粋さで呆れることもある。
老練な手練れ相手としてこちらも接していると思わぬところで傷つけてしまい、かといって油断していると今度はこちらが一手とられてしまう。
そして、この世界の常識からすればあまりにもいろんなことに対して執着がない。
丞相の思い人として栄華を極めることもできるというのに、花はその地位を一過性のものととらえている。自分の本来の居場所ではないと。
丞相である孟徳が、自分の位をどう使えばいいのかわからず落ち着かないのも無理はない。
落ち着かないからこそ、孟徳は彼女に惹かれ夢中になるのだ。

「……まあいい。とりあえず孟徳からの伝言は伝えたぞ。それとお前が気に入ってるかどうかも聞いてくるようにとのことだった。『気に入った』と言っておく」
「……すいません、いつも」
なぜかいつも孟徳と花のメッセンジャーのようなことをさせてしまう元譲に、花は小さくなって謝った。
孟徳は女官に言伝を頼むこともあるのはあるのだが、やはりいつもそばにいて信頼している元譲に頼む場合が多いのだ。これも、花が読み書きを習いたいと思う理由の一つだった。
「やっぱり自分で字を書いたり読んだりできたらいいですよね……」
花が欄干からきれいに手入れされた中庭を見ながらそういうと、元譲は立ち去ろうとしていた足を止めた。
「なんだ突然」
「だってこういう時にわざわざ元譲さんの手を煩わせずに、書いたものを渡したりできるじゃないですか。それなら孟徳さんだって元譲さんじゃなくて他の人に頼めるだろうし」
「まあ、そうだが……だが、文若に教わるのは孟徳に駄目だと言われたんだろう?」
「そうなんですけど。でもやっぱり習いたいなあって。そうだ!元譲さん、教えてくだ……」
「ダメだ!」
即答されて花は肩を落とした。
「……ですよね」
しょんぼりしている花をとりなすように、元譲は言う。
「…ほら、あれだ、料理は、その、厨房の手伝いのようなものはだめだが孟徳のものを作ることに限り許可がでたんだろう?ならばそんなに落ち込むことはない。孟徳の好きなものでも作ってやればいい」
「好きなものですか……」
花は今朝の孟徳の様子を思い出した。昨日の夜も仕事の関係で遅くまで飲んでいたから朝はいいよ、と言ってお茶だけ飲んでいたけれど。
時々胃のあたりを触っているし、今朝に限らず食欲がないみたいだし。
元譲がこの首飾りを持ってきてくれたということは、孟徳は来れないという意味なのだろう。最近読まなきゃいけない文書がたまっちゃって、と言っていたから、仕事をしながら食べるのかもしれない。
この城の料理人のつくる食事は本当においしいし皿数も多く、海の幸山の幸をふんだんに使っているけれど胃が疲れているときには辛いんじゃないだろうか。

私だって調子が悪いときはあっさりしたものがいいし……
そうだ!最近お城の軍医のおじさんに薬膳についていろいろ聞いたし。

「……孟徳さんは今日はお昼はどうする……」
お昼はどうするんですか?私、作っても大丈夫ですか?と聞こうとして、花は言葉を止めた。
しばらく考える。これはいい機会かもしれない。
あれもダメ、これもダメな孟徳。
でも彼は、きちんと納得すれば不満だとしても許可してしまうという公平…というか公正なところがあることを、花は知っている。

……どうかな。うまくいくかな?
でもどっちにしろこのままじゃダメなままなんだし、やってみて損はないような気がする。

どうしたのかという顔をしている元譲を見上げたまま、花はもうしばらく考えた。
そして心の中でうなづく。
「元譲さん、あの、お願いがあるんですが……」




「……なんだこれは?」
東屋で呂常の息子とその側近たちと話していた孟徳は、元譲の持ってきたものを受けとり、怪訝な顔をした。
「知らん。あいつがお前に持っていけと」
「ふーん……器?なんだろ」
蓋付きの高価な磁器の器。
「あ、これ、俺がよく食事の時に使ってるやつかな?」
花が作ってくれた食事の時は、たいていこの器に入っている場合が多い。
孟徳がそういいながらふたを開けると、中には孟徳が最近気に入ってよく食べているお菓子が一つだけ入っていた。
孟徳は花からのその菓子を指でつまみながら隣に座った元譲に聞いた。
「で、あの首飾りは気に入ってくれたって?」
「ああ、今夜つけると言っていた」
「そっか、よかった」
孟徳はにんまりとほほ笑むと、そのお菓子をポンと口に入れた。
「孟徳、その菓子はどういう意味だ?」
孟徳は肩をすくめた。
「仕事ばっかで疲れてる俺に、がんばってくださいっていうお菓子かな。かわいいよねー!」
「違うような気がするが……」
浮かれている孟徳の横で元譲は首をひねった。だったらなぜ一つだけ?なぜいつも孟徳が使っている器を使う?
元譲は考えていたが、孟徳はもう頭を切り替えて呂常の息子の方を見た。
「じゃ、続きを話そうか。元譲も来たからちょうどいい。昼時だから食事でもだそう」
孟徳はそういうと、東屋のそばに控えていた女官に人数分の食事を出すように言いつけた。花からもらったお菓子を食べたせいで、腹が減っていたことを思い出したのだ。
「いいのか?」
小声で元譲が聞く。
「何がだ?」
孟徳が不思議そうに小声で聞き返す。
「連日の宴会で胃が重いと言っていただろう」
元譲はそういって、胃のあたりにおいている孟徳の手を顎でしめした。
孟徳は苦笑する。
誰にも言っていないのに、この長年の付き合いのいかつい男だけは気づくらしい。ガラでもない世話焼きに孟徳はため息をついた。
「あーあ、こんないかついのに心配されても嬉しくないよ」
「悪かったな」
「さて……では、元譲も来たことだし話を続けるとしようか」
孟徳はそういうと、机の向こうで元譲との話が終わるのを待っていた呂常の息子とその側近たちに笑顔を向けた。

しばらくすると豪華な食事が並び、皆がそれを食べながら最近の情勢について話す。
いつもは特に気にせず食べる料理も、さすがに胃が弱っているのか今日は脂っこい気がして孟徳は箸がすすまなかった。
しかしすべて残すと、丞相は体調が悪いらしいというような根も葉もないうわさが流れて痛くもない腹を探られることがある。
一応体制は盤石になったとはいってもまだ南に呉、西に蜀が力をもって存在しており、孟徳としてはたとえ自領の武将といえどもうかつに弱みを見せるつもりはなかった。弱ってきた相手に対する裏切りは世の常だ。
その時、女官が一人入ってきた。
「なんだ」
孟徳は彼女が持っているものを見てもう一度「なんだ?」と首を傾げた。
女官がもっていたのは、先ほど花からのお菓子が入っていた磁器の器だったのだ。
「また菓子か?」
「いえ、奥方様が丞相にと」
「彼女が?」
目の前に置かれた器の蓋がとられると、中から湯気が立ちのぼりおいしそうなにおいが漂った。
胃にやさしそうな、軟らかく煮たおかゆのようなもので、孟徳の好きな薬味が入っていて量も少なめだ。
「いかがいたしましょうか?もう丞相はお食事を終えられた後だと言ってお返ししてきますか?」
「あー……なるほど」
孟徳は思い出した。
そういえば2,3日前に花が食事を作ってくれることになった時……

『あ、孟徳さん!ごはんの前にそんなの食べたらお腹いっぱいになっちゃうじゃないですか!』
『一個だけ!一個だけだよ。それなら少し腹に入れた分余計に食欲がますから』
菓子をこっそりつまみ食いをしたところを見咎められ、孟徳はそう言い訳をした。花は『ほんとですかー?』と疑うようなまなざしだったが。
もちろんそのあと彼女が作ってくれたあっさりした野菜スープ(ぽとふとか言っていた)と炒飯は全部おいしくいただいた。

「お昼作ってくれるって意味だったんだな。いや、置いて行ってくれ、食べるよ。そのかわりこっちを下げてくれ」
孟徳はそういうと、目の前に置かれた城の料理人が作った豪華な食事を下げるよう手でしめす。
「丞相?たいそうおいしいですが召し上がらないのですか?」
向かいで呂常の息子が聞いてくるのに、孟徳はにこやかに返した。
「最近俺の食事を作ってくれるのに凝っていてね」
「ああ……例の奥方様ですか?」
「そうそう」
孟徳はご機嫌で蓮華を手に取った。
呂常の息子とその側近は、肩をすくめて顔を見合わせた。あんな豪華でおいしい食事の数々よりも、一皿だけの質素な食事の方を選ぶとは、丞相は思ったよりもその新しい奥方にべたぼれらしい。

そんな彼らをちらりと見て、孟徳は満足げに一口口に含む。
おかゆは優しい味がした。