【掌中の珠 5】 


  

女官がかんざしを孟徳に持って行ったあと、花は孟徳の部屋へと向かった。
夜ももう遅く、廊下は薄暗いうえに人気がなかった。

広いから不気味なんだよね……

現代の電気に慣れている目には蝋燭の明りは暗すぎる。光が行き届かない闇に何かが潜んでいそうな気がして、花は知らず知らずのうちに早足になった。
左側に先ほど辞してきた宴会のにぎやかな声が聞こえる。聴きながら花が右に曲がった時。
急にぐいっと腕を乱暴に掴まれた。
「…っあっ!」
後ろにひっぱらっれてバランスを崩した花は転びそうになった。それをがっしりとした腕が抱き留める。転ばずにすんだ礼を言おうとした瞬間に、その腕が後ろから花に回された。
「え?な、なに?はなし……」
戸惑ってあげた声は、大きな手に口をふさがれて途絶えた。振りほどこうにも丸太のような腕の力は強く身動き一つとれない。その状態で後ろから体重をかけられて壁に押し付けられる。空いている方の手が花の体中をなでまわすに至って、ようやく花はまずいことになっていることに気が付いた。
はぁはぁと耳のすぐ横に押し当ててくる顔が気持ち悪い上に酒臭い。
「こら、女官!静かにしておれ」
抵抗する花に後ろの男がたしなめるように言った。
静かにしているはずなどないではないか!花は狙いを定めで足で思いっきり男の足を踏んだ。
「いた!ほれ抵抗するな、悪いようにはせん」
男の腕の力がさらに強まり、花の服の合わせ目から男の手が滑りこんでくるのを感じた。

い、いや!誰か……!孟徳さん!

花が嫌悪感に身を震わせたとき、静かな声が聞こえた。

「そこまでだ」

ぴたりと男の手が止まる。
聞き覚えのある声が続けた。
「そのままゆっくり手を放せ。あまり動くと首に刺さるかもしれないぞ」
決して取れなかった男の腕がゆっくりと離れていく。花はパッと距離を取って振り向いた。
中年の大男は花を離した状態のまま固まり、その後ろで誰かが立っている。大男の首筋にはきらりとぬるく剣が輝く。その剣を持っているのは孟徳だった。
いつもの明るい笑顔が消え失せて、凍えそうなくらい冷たい瞳をしている。
「孟徳さん……」
花がつぶやくと、孟徳はちらりと花を見る。そして「誰か!いないか!」と人をよんだ。
集まってきた女官や男たちに男はあっというまに捉えられた。すっかり酔いがさめたようで真っ青な顔で連れられて行く。孟徳は相変わらずの冷たい瞳でそれを見届けると、花のそばにきて肩を抱いた。
一言もしゃべらない。
「あの……孟徳さん」
怒っているのかと花がおずおおずと言った言葉も無視されて、花はそのまま廊下横の部屋に連れ込まれた。
そこは花も何度か来たことがある、文書を保管する書庫だ。廊下の蝋燭の明りが部屋に漏れ入ってくるだけで部屋の中はかなり薄暗い。
当然ながら今は誰もいない。書の受け渡しをする広い机の前で、孟徳は花を囲うようにして両脇に腕をついた。
「……何かされた?」
視線をそらして孟徳はそうつぶやいた。聞きなれない彼の低い声に、花は唾をのむ。
「い、いいえ……そうなる前に、孟徳さんが助けに来てくれたので……」
孟徳は花が言いかけた言葉をさえぎった。
「でもあいつは君を抱きかかえてた」
「それはそうですけど……」
「口をおさえられていたね」
「……はい……」
「体は?押し付けられていた?反対の手はどこにあった?」
「も、孟徳さん……」
孟徳の目が怖い。これまで花に向けたことのないような目だ。いつもは茶色で明るい光が宿っているのに、今はどこまでも飲み込まれてしまいそうな深い闇の色。
「あの、すいません……」
「いや、君が悪いんじゃない。これまで一人で城内を歩くのを許可していた俺が悪いんだ」
孟徳の言葉に花は顔をあげた。
「え?」
「君に人をつけよう。もちろん女でね。剣も使えるのがいいかな。……ああ、それとも城の一角を閉鎖して、そこから出られないようにした方がいいかな?」
「孟徳さん……」
「その方が中では一人で自由に歩けるしね。俺も安心だし」
「孟徳さん!大丈夫ですよ。私、なにもされてないです!夜は、部屋の外に出るときは必ず誰かを呼ぶようにするので……」
言葉の途中で、花は乱暴に押し倒された。背中に当たる冷たい机の感触とのしかかる孟徳の体に震える。
「も、孟徳さ……!」
これでは今度は孟徳が狼藉物ではないか。花のくちびるを求め、避けられるとそのままうなじへと降りていく孟徳の唇。
手は花の手首をがっちりとつかんで身動きができないようにしている。
ためらいのない孟徳の動きに、このままここで思いを遂げようとしていると悟り、花は彼の肩を押して必死に抵抗した。しかし体格差と力の差は歴然だ。
「ん…!ちょっ…!」
乱暴に着ているものを裾からまくり上げられて、花は焦った。その時気が付く。

震えてる……

孟徳の手は震えていた。
それに気づいた瞬間に、花の中に孟徳の気持ちが流れ込んでくる。

そうか、たぶん怖かったのは私より孟徳さんで……

心配性で過保護な孟徳。いつもあらかじめすべてをコントロールし花に危険がないように管理しようとしている。
その裏にあるのは、彼のこの人よりも強いマグマのような感情なのだ。
それをあふれさせないように、それが傷つかないように、頭のいい彼はすべてを支配したがる。
でも、他人を完全に管理することはできないから。
だから彼はだれも信用しないのだ。信用し受け入れなければ熱く強い思いがあふれることも傷つくことがないから。

花は抵抗をやめた。
彼のそんな内側に入りたくてこの世界に残ったのだ。毒を食らわば皿まで、虎穴に入らずんば虎子を得ずと故事でもいうではないか。
彼を得たいのなら彼の感情の中にまで入り込まなくては。それに対する彼の抵抗も甘んじて受けなくては入り込むことなんてできない。でも、花が望んでいるのは二人で狭い世界で閉じこもることではない。
花は抑えられている手をねじった。
「孟徳さん……手を、手を放して……」
彼女の鎖骨をさまよっていた孟徳は顔をあげた。「逃げないです。逃げないから放してください。……孟徳さんに触れたいんです」
「……」
これも信じてくれなかったらどうしようという不安があったが、しばらくの間の後、孟徳はゆっくりと手を放してくれた。
花は自由になった手を孟徳に首に回すと、彼を引き寄せて唇を合わせた。
「…!」
彼の体がこわばり驚いているのを感じる。花はそのまま唇を離さずにキスを深めた。
すぐに孟徳が主導権を取り返す。
「…あっ…」
食べつくしてしまいたいというように、深く深く孟徳の舌が入ってくる。せわしなく動く彼の手は、思わぬ花の行動にあおられて花の服を破いてしまった。
「孟徳さん……」
キスの合間に見た彼の瞳は怖いくらいに真剣だった。
素肌をなでまわす手に、花は次第に我を忘れて甘く溶けていった。


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空が白んできたころ、花はあたたかく弾力のあるものの上でぼんやりと目を開けた。
下はあたたかいのだが、背中が少し寒い。
かすむ目を凝らして周りを見ると、いつもの寝台ではなかった。
「起きた?」
「……もうと、くさん……」
声を出して花は驚く。カラカラでのどがかれているのだ。その声を聴いて孟徳は満足げにほほ笑んだ。
「喉がれてるね。昨日さんざん啼かせたからなあ」
彼の顔は、花が襲われた後の妙な焦りのようなものはすっぽり取り払われていた。花は安心して、彼の胸に再び顔をうずめる。
これまで何度も一緒に朝を迎えた。そのたびに少しづつ孟徳に近づいていけてる気がしていたが、今朝は格別だ。
大きな壁を一つ乗り越えたような気がする。
孟徳の顔も、いつもどこかにある緊張した様子や警戒感が取れているように思える。
体はぐったり疲れていて、睡眠不足で頭は綿が詰まったように感じるけれど、花は今なら、と思い口を開いた。
「孟徳さん」
「ん?」
眠そうな孟徳の声。その響きもすっかり気を許している感じがして、花の胸は幸せに暖かくなる。
「昨日の、襲われたこと……ごめんなさい。心配させてしまって」
「……」
「城の中なら安心かと思って一人で孟徳さんの部屋にいこうとしてたんです。いつもはそんなことしないのに。もうしません。これから夜で歩かなくちゃいけないときは、必ず誰かを呼んで一緒に行くようにします」
孟徳は花を抱いたまましばらく天井を見上げていた。そしてため息をつく。
「わかったよ。君を閉じ込めるのはなしってことだよね?」
こくん、と花はうなずいた。孟徳は今度は花と目を合わす。複雑な顔をしていたが、しばらくすると吹き出した。
「男を思い通りにしたいのなら事後に言えって、君は知っててやってるの?」
「え?」
孟徳の言っている意味が分からずに首を傾げた花に、孟徳はまた笑った。
「そんなことないか。知っててやってるのならまだ可愛げがあるけど、君の怖いところは知らずにやってるところだな」
「……はあ……」
何を知らないんだろう?と思いながらも、特に花の返事を期待していない様子の孟徳に、花はあいまいな相槌をうった。
「そしてそれがわかっているにもかかわらず、君の思う通りにしちゃう俺も俺だ」
孟徳は呆れたように笑い、不思議そうに自分を見ている花に言った。
「他には?何かお願いがある?」
花は考えたが、ここで読み書きを習いたいというお願いをいうのは何か違うような気がして言うのはやめた。気まぐれで許可してくれたものはまた気まぐれでとりあげられてしまうかもしれない。読み書きの学習は、孟徳にも納得してもらって時間をかけてやりたいのだ。
花はそのかわりにもう一つのお願いを言う。
「お願い、あります」
「何?何でも聞くよ?」
「あの、時間が欲しいです、孟徳さんの」
「時間?」
花はうなずいて、孟徳の顔を見る。
「できれば一日。私が前に住んでいたところは、恋人同士はデートって言って二人で出かけるの毎日するんですよ」
毎日大げさかもしれないが、LINEやメールや電話がある。会わずとも話していることを回数に入れればそれぐらいにはなりそうな気がする。
「二人で出かけたいってこと?」
不思議そうに首を傾げる孟徳に、花はうなずいた。
「はい!襄陽で抜け出したのはとっても楽しかったです。また孟徳さんと二人でお出かけしたいです。毎日は難しいのはわかるんで、とりあえず一回だけ」
花のかわいいお願いに、孟徳は胸の奥と下半身がむずむずするのを感じた。

「一回でも何回でも!」
一瞬浮かんだ文若の渋面をさっさと払って、孟徳は嬉しそうにそういうとがばっと寝返りをうって花を自分の下にする。
「そんなかわいいおねだり、いくらでもきくよ。俺だって君と出かけたいし!」
そういって唇を寄せてくる孟徳に、花は焦った。孟徳の手はすでに花の胸の方へと向かっている。
「も、孟徳さん!だめですよ。もう朝です!この書庫のおじさんも出勤してきちゃ……」

花の抗議は孟徳の口に飲み込まれてしまった。
廊下で朝の支度を始めている女官たちが行きかう様子が聞こえてくる。 
お構いなしに攻めてくる孟徳に花は必死になって声を出さないよう耐えたのだった。