【掌中の珠 6】 


 



そっと足音を忍ばせて歩きながら、花はすぐ目の前にある孟徳の広い背中を見た。
今日はいつもの赤い服ではなく、シンプルな濃い藍色の衣だ。首周りと袖口に金色の糸でふちどりされていて豪華ではあるが、もう少し位が低く若い官吏の平服らしく装っている。
人目につかないように隠れてあまり使われていない門へと向かう途中だ。
繋がれた手やいつもと違う孟徳の感じに花はドキドキした。

なんだろ、服が違うから知らない人みたいに思うのかな

なぜか赤くなってしまう。
花はうつむいて孟徳について行くと、ドンと彼の背中にぶつかった。
「孟徳さ……」
「しっ!」
するどく止められて、孟徳の向こう側を見ると衛兵が歩き去る背中が見えた。門はもうすぐだ。
門の前に元譲と他護衛三名がいるのが見える。
「花ちゃん、行くよ!」
最後の距離を、孟徳と花は走って抜けた。
「来たか」
「ああ、門を開けてくれ」
護衛が開けた通用門を、孟徳は花を引っ張ったまま一気にくぐり抜けた。
城の外の広い空、広い空間。今日は冬に向かう前の晴天で空はどこまでも高く気持ちがいい。
花は重い重圧や周りの目から抜けたように開放感を感じて思わず深呼吸をした。
門の外は広場で露店や農民の野菜売りがひしめき合っているにぎやかな空間だ。
「大丈夫?」
にっこりほほ笑んだ孟徳の笑顔に、花はまたもやドキッとした。
忙しい仕事や重圧から逃れられたからだろうか、孟徳の笑顔がかわいい。
「は、はい。大丈夫です」
「顔が赤いよ?風邪かな?」
オデコに触ろうと手を伸ばしてきた孟徳に、花は必死で首を横に振った。
「いっいえ!大丈夫です。走ったからちょっと暑いだけで……」
「そう?じゃ、行こっか?」
つないでいた手はそのままで、孟徳は広場の町への出口を指さした。花は後ろにいる元譲と護衛を見る。
「あの、元譲さんはどうするんですか?」
元譲はムスッとしたまま口を開いた。
「ついていく。いないものとして気にしないでいればいい」
「わざわざお前が来ることもなかったんだけどなあ。護衛は、まあつけるにしても」
「しょうがないだろう。それが文若の条件だからな」
孟徳はわかったわかったというように片手をあげると、花を連れて歩き出した。
「せっかくの『デート』なんだから、離れてついて来いよ」
「言われなくてもそうする」
自分たちの遊びに元譲や他の護衛もつきあわせるのかと花は気の毒に思ったが、孟徳の地位なら当然だろう。
孟徳は気にせずどんどんと歩き、広場を抜けた。

「どこに行きたい?とりあずは市にでも行こうか。今日は西域から隊商が来ているはずだから珍しいものがみつかるかもよ」
「はい!あと、私、あの高いところにあるあれにも上ってみたいなって思ってたんです」
花はそう言うと町を見渡せるように作られている城壁の物見台を指さした。
「あんなところに行きたいの?」
驚く孟徳に、花は力強くうなずく。
「はい。ぜひ!」
「ああ、まあ……」
敵が来るのをいち早く見つけるための物見台だから、景色はいいだろう。普通は兵士以外立ち入り禁止だが、孟徳が望んでできないことはこの城下には何一つない。
「じゃあご要望にお応えして、まずあそこに行こうか?」
こうして楽しいデートはスタートしたのだった。



「わあっ!すごい!すごく遠くまで見えますよ!」
遠くに山が見え、城の近くには畑のようなものや集落がポツンぽつんと見える。
日本で見ていた景色とは違い、地球の果てまでさえぎるものない広大な平野だった。
「君の国は見える?」
孟徳の問いに、花は頭を巡らせた。
塔の上には、階段の入り口に元譲が一人、見張りの兵士が反対側に一人いるだけだ。花は太陽を探す。

あっちから太陽が昇るから、東……
「たぶん……あっちの方です。でも全然見えないです」
東の方も同じような光景だった。海すら見えない。
「海を渡るんで、そもそも見えないですよね」
「海か……」
塔の上を吹く強い風に茶色の髪をなびかせながら、孟徳は目を細めて東の方向を見た。
「あっちの方面にはほとんどいかないけど、行くことがあったら連れてってあげようか?」
花は首を横に振った。
「今もし日本に行っても私の知ってる日本じゃないですし。それより孟徳さん!あれ、見えます?」
花が指さす方を孟徳は見た。はるか向こうにかすかに見える大きな木だ。
「あの木?」
「そうです。それからあっちの山とか、あの向こうの川とか」
「うん。見えるよ」
「名前とかあるんですか?」
「ああ、一応あるのもあるね。あの木はないけど、あの山は……」
それからしばらく孟徳は指をさしながら花が聞きたがる遠くの地形について名前を教えたり冬は雪がふるとか、あの川の先に大きな湖があるとか、聞かれるがままに答えた。
女性にこんなことを聞かれるのも初めてだが、花は他の女性とはもともと違う。何が面白いのかと思うが彼女自身はとても楽しそうだから、まあいいか、と孟徳はそこでしばらく花とのんびり景色を見ながら話をした。


次は市だ。
市の周りには当然のように屋台が出ており、孟徳と花は肉まんのようなものを買い食いして甘いお菓子を食べて、市で小物屋を眺めて行く。
ある店で花がかんざしを見ていると、
「ね、そういえばさ」
孟徳の言葉に、花は迷っていたかんざしから目を離して隣に立っている孟徳を見上げた。
城の中で同じ部屋にいるときよりもこうして町中の人ごみの中にいる方が親密に感じられて、花はうれしかった。城の孟徳は、丞相でもあるので皆から少し貸してもらっているような気分なのだ。今は花だけの孟徳だ。
花の孟徳はそんなことは考えていな気楽な感じで、売り物の簪をもてあそんでいた。
「あの時の宴会の、あのかんざしはどういう意味だったのかな」
「宴会……」花は言われて思い出す。
「わからなかったですか?」
孟徳は目を瞬いた。やはり何か意味があったのか。周りにいた武将や部下から言われた言葉をひとつづつ花に言ってみる。
「新しいかんざしを欲しいとか」「宴席にいる他の女の子といちゃいちゃするなっていう……違う?」「準備OKっていう意味でもないよね」
全てに花が首を横に振るのを見て、孟徳は腕を組んで考えた。
「うーん、なんだろ」
「あのかんざし、飾りに使われてた石が何色だったか覚えていますか?」
「石?青色……だったよね?」
花はうなずいた。やはりすこしわかりにくかったか。
自分の赤い部屋の扉の前にいるときにはいいアイディアかもと思ったのだが。
「その……孟徳さんの部屋の扉の色って青いじゃないですか?で、私の部屋の扉の色は赤いので、あれで『青い方……つまり孟徳さんの部屋にいます』って、伝わるかなーって思ったんです」
「ああ…!なるほど」
「伝言を頼まないで孟徳さんと連絡を取る方法がないかなっていろいろ考えてたんですが、やっぱり難しいですね」
孟徳は意味ありげに花を見る。
「俺は考え付くけどね、伝言を頼まないですむ方法」
「え?ほんとですか?どんなふうに?」
それは助かる。昼ご飯をどうするか、とかどっちの部屋で寝るか、とかそういうことのためにいちいち元譲や女官を煩わせるのが、庶民の花にとっては気づまりだったのだ。
「うん。君が俺の部屋に移ってくればいい」
「……孟徳さんの部屋に?でもしばらくは別々でもいいって」
「いいかげんもういいんじゃないの?俺は朝も夜もずっと一緒にいたいなあ。花ちゃんはそうじゃないの?」
甘えるように言われて花は困った。
別に移るのがいやなわけではない。
「それは……私も、いたい、です、けど……」
なんとなくためらっているのは、なぜだろう?花はしばらく考えてからゆっくり自分に確認するように口を開いた。
「私はこっちの世界のことを何にも知らないし、経験もあまりないじゃないですか?」
孟徳は興味深げtに花を見ている。
「……うん」
「何も知らない今みたいなままで孟徳さんの部屋に移っちゃうと、ますます一人で何にもできなくなっちゃう気がするんです。孟徳さんは優しいから、それでもいいよって言ってくれると思うんですけど……」
「……」
「でも、それでいいのかなって自分で思っちゃうんで、だからもう少し、この世界で私ができることをちゃんと見つけてから移りたいなって。部屋がわかれてなくてもできるよねって言われたらそれはそうかもしれないんですけど……」
考え考え離す花の横顔を、孟徳は見つめていた。
こんな風にまっすぐに自分に対峙する人間はいつ以来だろうか。敵味方ならあったが、味方でここまでの人間は孟徳の位があがるにつれ減っていった。ここまでことごとく孟徳の望む展開を拒否する人間も、かなり久しぶりだ。なりふり構わず自分一色になってほしいという本音はあるが、彼女を悲しませるのは本意ではない。
それに彼女も自分自身を守った方がいいだろうとも思う。孟徳に飲み込まれて自分を見失っていくを何人も見てきたが、彼女にはそうなってほしくない。そういう意味でも、今彼女が言った返答は……まあ、孟徳にしたら面白くはないが、正しいと言えるのではないか。
「わかった」
孟徳はあっさり答えた。切り替えは我ながらうまいと思っている。
「俺としてはいつでも大歓迎ってことだけ覚えてて。好きな時に来てくれると嬉しいな」
花の顔がほっとしたようにほころんだ。
「ありがとうございます!」
孟徳もほほ笑んで花を見た。今はこの笑顔をを独り占めできることだけで満足するとしよう。
「欲しいものはあった?買ってあげるよ。それとも他の店に行く?」
店の中を見渡して孟徳がそういうと、花は頷いた。
「さっき通りかかったお店でほしいものがあるんです。あの……私、お金もってないんですけど、買ってもらっちゃってもいいですか?」
「もちろん!前にも言ったけど俺、結構高級とりなんだよ」
孟徳が高給取りなんていうレベルではないのは、もう花もわかっている。だが、花は律儀に「ありがとうございます」と礼を言った。


買い物をして食事をして、お店を冷かして買い食いをして……夕方まで楽しんだ二人は、城に向かって歩いていた。
「疲れた?」
孟徳が聞くと、花は首を横に振った。
「いいえ。孟徳さんが気を付けてくれたんで大丈夫です」
前も思ったが孟徳は優しいというのか気が利くのだ。疲れたなー喉が渇いたなーという絶妙なタイミングでお茶屋さんに誘ってくれたり飲み物を買ってくれたり。買ったものは後ろの護衛が皆持ってくれて、花は本当に疲れていなかった。
「孟徳さんはどうでしたか?疲れてないですか?楽しかったですか?」
「楽しかったよ。君とずっと二人でいられるし、しかめっつらの男もいないし、難しいことも考えなくていいし。毎日こうだといいんだけどなあ」
「最近忙しそうですもんね」
城への帰り道、二人は歩きながら話していた。
「うん、……そうなんだ、言っておいた方がいいと思うんだけどちょっと問題があってね。これから忙しくなると思う。たぶん城を留守にすることもあるかもしれない」
孟徳の治める領地は広大だ。つい先日まで戦い続けていた各領地が急におとなしくなるわけはないことは、花にもわかっていた。でも、今の状態で孟徳がいなくなってしまうのはやっぱりさみしい。
「……そうですか……」
今の花は、以前のように捕虜とか軍師とか身分がはっきりしない状態ではない。遊びでもないのに遠征に堂々と花を連れていくのも難しいのかもしれない。でも、車も新幹線もないこの時代、一度旅に出ると半年留守などざらなのだ。
「君を連れて行けるといいんだけどね。まだわからないけど物騒なことになるかもしれないし、旅はただでさえ危険だし、俺としては安全なここで待っていてくれると安心だな」
「孟徳さん」
花は立ち止まった。
いつの間にか二人はもう城の門の前の広場まで来ていた。
「何?」
「私……」
花が言いかけた時、元譲が近づいてきて声をかけた。
「話し中悪いが、ちょっといか」
元譲は花の顔を見て会釈をする。
「すまない。孟徳、門番の兵長が少し気になることを言っている。お前も聞いた方がいいと思うんだが」
「ああ、……ちょっとごめんね。すぐもどるから」
孟徳は花に断りを入れると、元譲と護衛一人とで門番らしき兵士のところへ向かった。花には少し離れたところに護衛が一人ついている。
二人きりになってなんだか気まずくて、花は言った。
「あ、ありがとうございます……今日、いろいろ連れまわしちゃってスイマセンでした」
門番は驚いたように気を付けをし、「はっ!」と最敬礼をした。

……話しかけるとこうなっちゃうんだ。

単に間を持たせるための世間話をしたかっただけなのだ。ここまで格式張られると話しかけにくい。
花は、あいまいに笑うと広場の方へ視線をそらした。
すぐ横にある城壁に、汚い身なりをした子どもが二人いるのに気が付いた。
「お兄ちゃん、お腹減ったよ〜!」
「今日は売上がすくなかっただろ、あんま食べれないんだよ」
「お腹減った〜!」
子どもたちの会話に、花は食べきれなくて残した肉まんとおまんじゅうを思い出す。包んでもらって持っていたものだ。
花は子どもたちに近づいた。護衛が止めようとしたが、そのまま進み、子どもたちの前でしゃがむ。
「これ、もしよかったらどう?」
花が差し出した肉まんを、子どもたちは目が落っこちるかと思うくらい大きく見開いて見つめた。手を伸ばしたいのに知らない人に伸ばしていいのか、後ろに怖そうな男の人がいるけど大丈夫かと、子どもなのにぴりぴりと警戒しているのを感じる。
花は警戒心が解けるようににっこり微笑んで、肉まんをさしだした。
「私はもう食べられないの。口はつけてないから分けて食べてね。あとおまんじゅうも」
「ありがとう!」
小さい弟の方ががまんできなかったようで、パッと手を伸ばして受け取った。兄の方はまだ警戒しているようだったが、弟がもう受け取ってしまったので、どうしようもない。
「ほら、貸せよ、半分こだぞ」「こっちもね」
仲良く分けてかぶりつく兄弟を、花はにこにこと笑いながら見つめていた。日本での弟よりは小さいが、弟がこれくらいだったときを覚えている。
かなり大きな肉まんだったので、半分でも食べ終わる頃にはお腹がいっぱいになったようだ。それにつれて警戒心も溶けてきた子どもたちと、花はおしゃべりをした。
「ここで木の実を売ってたんだ?お父さんとかお母さんは?」
「いない。死んじゃった」
あっけらかんという弟に、花は驚いた。
「死んじゃったの?じゃあ君たちはどうしてるの?」
「お父さんは戦争で死んで、母さんは病気で死んだ。俺たちはもう大きいし木の実を売ったり使いっぱしりをして金をかせいでるよ」
兄の答えに花は自分が前にいた時代との違いを思った。『もう大きい』と少年はいっていたが、まだ兄は10歳くらい、弟は5,6歳だろう。日本では子どもだ。しかし少年たちは花の暗い顔には全く気付かず、今度は饅頭にかぶりついている。
「もっと大きくなれば力仕事とかできるからもっと稼げる。だから頑張るんだ」
弟が無邪気にそういうと、兄もうなずいた。
「字を読めるともっと金になるんだけど」
「そっか……」
教えてあげたいが花も読めない。習和せてほしいとお願いしたが、前は断られてしまった。

孟徳さんにだけじゃないよね。他の人にとっても、私って役たたずだなあ……

「花ちゃん!」
花が振り向くと、孟徳が門のところで元譲と一緒に立ってこっちを見ている。
花は立ち上がると少年たちに別れを言った。
「ばいばい!ありがとう」「ありがとう!」
「うん、またね」




門に入ると花は先ほどの出来事、これまでのことを考えてみた。
やっぱり孟徳さんにお願いしてみよう。なんとかならないかなっていろいろ試してみたけど、やっぱり……
花は決心すると立ち止まった。
「花ちゃん?」とキョトンとしている孟徳を見上げる。

「孟徳さん、さっき言いかけた話なんですけど、私、やっぱりもっと読み書きができるようになりたいです」