【掌中の珠13】 


 


竹簡をぼんやりもてあそびながら、孟徳は頬杖をついていた。
目の前では部下たちが喧々諤々の怒鳴り合いをしている。会議が紛糾してお互いに考えを譲らないやつらが今にもつかみ合いのケンカをしそうになっているのだ。
隣に座っていた元譲はため息をつくと、孟徳を見た。
「おい、なんとかしたほうがいいんじゃないのか」
「……なあ、元譲。聞きたいことがある」
なんだ?と元譲は孟徳を見た。今の会議はかれこれもう4時間を超えている。議題は相も変わらず孟徳が魏王の地位を得るべきかどうかについて。
一時は孟徳自身が、魏王につくつもりはない、三強が分立したまま漢王朝を支えていくと明言したため沈静化したが、また最近になって部下や地方の軍閥から孟徳を魏王にとの声が強くなってきているのだ。無下に意見を退けるわけにもいかないし、かといって採用すれば仲謀や玄徳が黙っていないだろう。孟徳は再び難しい局面に立たされていた。
そんな状況での孟徳の問いに、元譲は身を乗り出した。「なんだ?」

「花ちゃんは、俺のどこが好きなんだと思う?」

「……」
元譲は一気に遠い目になった。
「知らん」
「女の子にやさしいところかな」
「……」
「それとも端正なこの顔かな?」
「本人に聞け」
孟徳は、ん〜と伸びをする。
「聞いたけどよくわからないんだよね〜……」
どうせいつものノロケかと思っていたら、意外に真剣に悩んでいるような孟徳の様子に、元譲はもう一度孟徳に向き直った。
「なぜそんなことが知りたいんだ」
「……」
孟徳は深く椅子の背もたれに寄りかかり、しばらく考えていた。
「つまりさ、俺の顔が好きだとしたら、俺が年老いて皺くちゃになったり顔に傷がつけば彼女は去っていくだろ?俺の地位が好きなら、俺が玄徳に負けて追われるようになれば彼女はいなくなる」
数え上げるように言う孟徳に、元譲が首を傾げた。何が言いたいのかよくわからない。孟徳はそんな元譲にはかまわずつづけた。

「物事にはすべて対価がある。金とか権力とか自分の身の安全とか一族の繁栄とか。じゃあ彼女が俺の傍にいてくれる対価が何か。それがはっきりわかれば、それを与え続けている限り彼女は離れては行かない」

孟徳の闇の深さについては元譲も承知していた。
花が現れて、昔の、明るく楽しげな孟徳が戻ってきたと元譲はひそかに喜んでいたのだが……
逆に花の存在が、孟徳が奥底でコントロールしていた闇を解き放ってしまうことになるのだろうか。そういえば花との仲がこじれると孟徳もピリピリしていつもの余裕がなくなる。花が現れる前は傍にいて怖いほど、まるで感情などないようにすべてを計算して判断し、その判断通りに行動していたのだが。
今の方が人間らしいと言えば人間らしいが、丞相の地位と力を持ったままコントロールを失うのは、周りの者にとってたいへんな迷惑だ。
「そんなことを考えなくても、あいつはお前のそばを離れないだろう?」
「……」
孟徳の返事はない。
「あいつはお前に惚れている。それは誰が見てもわかる。お前がそんなことを考えるのはお前もあいつのことを大事にしているからだ。つまりお前たちは両想いで幸せなんだ、な?」
元譲はなぜか必死で孟徳をなだめていた。だって、このまま孟徳と一対一で対峙しなくてはいけない花がかわいそうではないか。
花は、そりゃあ浮世離れしているが元譲から見ても一途に孟徳を思い、異国の中で異なる風習や価値観の中でとてもがんばっている。それなのに、一番理解してほしい相手であろう孟徳からこんな風に思われているのは、哀れすぎる。
孟徳はつまらなそうにつぶやいた。
「まあ、今はね。でも人間は変わるし状況も変わる。俺はできれば彼女には強引なことはしたくないんだ。彼女の意思を尊重してあげたい。彼女の意思を尊重しつつ俺の傍に居続けてもらうには、やっぱり彼女が俺に何を望んでいるのかを知るのが一番いい」

ああ、そうかと元譲は言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
この男は『信頼』ができないのだ。
昔、元譲の前で誓った。
焼け焦げ、血まみれになり、ほとんどすべてを失ったときに。
彼女がくれる『信頼』の対価を、この男は探している。だが当然ながら見つけられない。それが不安にさせるのだろう。

あいつも難儀な男を選んだものだな……

元譲は花を思い浮かべながらそう思った。貪欲に相手の全てを欲しがる相手に、花はいつまで与え続けられるだろうか。相手からはなにももらえないのに、それでも『信頼』と『愛』を与え続けることは難しい。いつかは尽きてしまうだろう。

誰しも心の奥底に持っている『珠』。
大事に大事に、傷つかないように大切にしているそれを相手にゆだねることを『愛』というのだろうか。
気軽に渡すことができる人間もいるが、決して渡すことのできない人間もいる。特に、一度渡して粉々に砕かれた経験のある人間は、二度と渡そうとしないだろう。
花はそれを理解してくれている、と元譲は思う。
孟徳が、自分の球を渡せないのをわかったうえで、そんな孟徳の傍にいたいと言っている。
たとえ不公平だろうとも、花がよければそれでいいだろう。

元譲にできることは、孟徳が自分の手のひらに持っている彼女の珠を、大事に扱ってくれるようにと祈ることだけだ。










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